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老い先短い弟に命を救われた、人生有り余ってる兄です。
僕に " この " 弟がいなかったら、
とっくに来世の誰かにバトンタッチしてたかもなぁと思う。
こちらの記事で、うつ病だった僕が在宅で弟とデザインの仕事を始めるに至った経緯について簡単に触れました。
奈落の底まで落ち切ったやる気・気力・希望を、たっぷりの遠回りと一緒に和えながら、約2年半もの月日をかけて少しずつ育ててきました。またいつあの地獄に陥るか分からないという恐怖が消えてから1年も経過したことに、驚きと少しの焦りがあります。つまり、他人から見れば3年半の間なんにもしていない25歳です。
今ではあの日々の記憶を呼び起こすのを脳が嫌がるほどに、どろっどろの混沌とした闇の世界の住人でした。この兄を救ってくれた弟に感謝してもしきれません。
そんな可愛い弟であり、命の恩人でもあり、一番の親友でもある年下のおじいちゃんについて書きたいと思います。
老い先短い弟
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僕と一緒で中学時代にバスケ部だった弟は、部活動での激しい消耗などで体を壊してしまい、持病のてんかんも相まって保健室のベッドか自宅の布団の上で青春のほとんどを見送っています。医師に見せても悪いところはないと言われるし、原因も病名も分からず症状も多いので実は兄の僕もよく分かってません笑
ただ、夜になると発狂し痙攣して暴れまくる弟を家族総出で食い止める行事は通年行事となり、あまり覚えていませんが3~4日に一度は開催されてたかなと思います。暴走した記憶もないし、夜中に無意識で書きなぐった禍々しい絵も描いた記憶がないことが多かったです。
そのうえ毎日熱があり、救急車を移動手段として使ってんじゃないかってくらい救急車にはお世話になっており、あと電柱にもよくぶつかっていました。
「どうしたらいいんだろう。。。」
隣の母ですらどうしたらいいのか分からない顔をしるんだから何もできないなと感じ、僕は無力感だけが残る高校生活を過ごしていたように思います。
そんな弟も中学卒業後は徐々に元気になり、フリーライターとして年齢にそぐわない味のある文体でそれなりには稼げるようになっていましたが、大切な成長期に毎日のように高熱だった彼は脳や筋肉、細胞をひとの何倍もの速さで消耗してしまったらしく、23歳にしてかなりのガタがきています。
まだ外見にまで現れるほどではないのですが、身体は相当おじいちゃんのようです。頭痛、腰痛、肩こりはもはやデフォルト状態のためよっぽど激しくない限りは訴えることもなく、体力に至っては75歳と言っていいでしょう。近くの薬局まで行って帰ったら息切れすることもあります。
病床では脳を使って遊ぶしかなかったようで脳の休ませ方も知らないらしく、寝てるあいだも考えてるだとかよく分からないことばっかり言ってますが、たぶん全部ほんとなんです。
老い先短い弟に命を救われた
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/64831611/picture_pc_4976e1905e9e2c93374b0dd9ef1dbac4.jpg?width=1200)
弟が、身体の損傷はあるものの日常生活を問題なく送れるようになって油断していたら、今度は兄の番でした。今から3年半前の就活真っただ中の時期。初めてきちんと自分の本心と向き合っていく過程で、気が付けばうつ病に。それはもう美しいグラデーションのごとく心を黒く染め上げていき、人生におけるすべてを諦める覚悟を決めた僕は人の繋がりを断ち切り、お金を使い切り、身体をすり減らして、自暴自棄になっていました。
はじめてやりたい放題で生きていたこの頃の僕は、そんな状況にも関わらずどこか酔いしれていた部分がありました。
そんな兄を見かねて一緒にデザインの仕事をしようと言ってくれたのが弟です。デザインに興味がありIllustratorとPhotoshopが多少使える程度でしたが、弟もイラストの勉強を始めてくれてイラストとデザイン業で少しづつ独学でお仕事していました。
培ってきたライティングスキルや人脈までもを投げうって、一人で歩けなくなってしまった兄との共生を選んでくれました。事務作業や営業はもちろんのこと、僕にペースを合わせてメンタルケアまでしてくれてました。
兄はただ言われたことをやるだけ。最初は情けねえ兄だななんて思ってたけど、「やることがある」、それだけで時間が徐々に癒してくれていたことに気が付いたのはずっと後のことです。
老い先短い弟に命を救われた人生有り余ってる兄です。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/64831180/picture_pc_8f853105b33db7a7124ebed915bdf56b.jpg?width=1200)
年下のおじいちゃんは今日も、法定速度を平気で破る体を追いかけるようにして命を燃やしながら生きています。燃費も悪く脆弱な車体に無理を言わせてひたすら前進し続ける蒸気機関車みたい。正直並走していると疲れます。熱量と煙と揺れで居心地が悪いこともあります笑
でもたまに車内に乗せてもらって景色を共有させてもらうときは、心の底から羨ましいなといつも思います。リミットを薄々感じているからこそ、いろんなことをそっちのけで理想のためにしっかりと生きている。自分にもしっかり「生きる」なんてできるのかな。
居心地の悪い蒸気機関車に乗せてもらっているあいだに、ようやく心と体を接続させることができました。心の守り方も会得して正直に生きることの大切さを誰よりも強く実感しました。弟に言われてプライドも窓から捨てました。
いちおう人生のオフロードを3年半も走り続けた無駄に頑丈なオフロード車(身体)は持ってるので、あとは何を燃料にこの長い長い人生を乗り切ろうか、いや、楽しもうかと今は模索しています。
どん底を舐め回すように味わった分、幸せを感じる力だけはメキメキ成長してしまったので特にこれといって人生に求めるものがなくなってしまいました。でもそれは、新型コロナが蔓延る随分前から自主的に自分をロックダウンしていたことで外界への意識を断ち、あらゆる刺激を拒否し続けてきたからだと分かっています。
自分と他人を大切にしながら、あくまでも自分の人生を描いていくための心と体の準備が整ったので、そろそろ自分専用の燃料を探しにこのどこでも走れるタイヤで冒険したいなと思い始めています。
さぁて
どんなオフロードを
どんなはぐれ者と
どう全力で楽しもうか
いや待てよ。想像するだけで幸せだな。
楽観的な部分だけは年下のおじいちゃんにも手に負えなかったようです。
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