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日記:くも膜下出血

ここからは家族の話をする。まだ見ぬ誰かのために記しているわけではない。何かのために記しているわけでもない。

2019年7月7日

この時はインターンシップに参加中だった。

夕方にはソファに座って寝ていた父が夜になって気づけば床にずり落ちてごろ寝になっていた。声をかけるもうめき声のような反応しかなく眠そうなのかと少し様子を見た。

しかし、失禁していたのを見て、様子がおかしいと言った母に「救急車を呼ぼう」と俺が言い出したのが23時を過ぎた頃。到着した救急隊員が声をかけるも反応が芳しくないようだった。担架ではなくシートに包まれるようにして抱えられて運ばれた。

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※この画像のバターのようにシートに包まれて運ばれていった。

翌日はインターンシップの出社日になっていた俺は家に残って、搬送される父には母が付き添った。病院に搬送された時には日付は変わっていた。

くも膜下出血で緊急手術が決まった。

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当時のチャット。互いにAndroidスマートフォンなので母にLINEを新たにインストールしてもらう手間を省くためにGoogleハングアウトを使っている。

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翌朝の朝食。パンの上に目玉焼きを乗せた。

予定では7月8日の午前に手術が終わるらしかったが、時間が延びて結果として約11時間を要した。

なお、命に別条はないと伝えられたのもあって、この日以降は何食わぬ顔で出社した。

後に見舞いのために母と共にICU(集中治療室)を訪れた。全身麻酔が効いていた。

入院

父は入院。勤務先の有給休暇などを全て使い切り、その後は休職扱いとなる。しばらくすると、職場復帰が見込めそうにないと分かる。家計としての収入は大きく落ちる事になる。保険から降りてくるのみ。

手続き

各種手続きは母が行っていた。細かい事は何も理解していないが、どんな状況なのか話をする事はあったので、多少聞きかじっていた。

これまでに強く印象に残っているのは、父の勤務先とのやり取りの中で定期券がモバイルSuicaに入っているため、その解除を、と意識を取り戻した父にスマートフォンのロックを解いてもらおうとしたが本人は操作する気がなく、ロック解除に必要なパスワードは覚えていないとの事だった。何度か勤務先の担当者とやり取りをしていて何とか手続きを進めようにも進まないという様子までは窺えた。

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転勤先のロンドンに在住していた時の父。2005年8月、夏のイタリアで。右に見えるのは世界遺産で有名なピサの斜塔。

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父。2019年8月、搬送先の病院で。手術から約1か月後。

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父。2020年1月。転院したリハビリ先の病院で。後述するように、クレーター状の頭の凹みは一時的なもの。

今、父の現状を並べるとこうなる(2020年1月時点)。
1. 気管切開をしていて医療器具を使った痰の吸引が必要。
2. 右半身の麻痺で右腕は十分に動かない。
3. 声を出せないが左腕を動かしたり、顔を横に振ったり頷く事で意思表示ができる。
4. 食事はなく、必要な栄養は鼻に通したチューブで補給している。
5. くも膜下出血の手術の際に開頭手術をした。その際に頭蓋骨の一部を外しているが、戻しても脳への圧力が無くなるまでは頭蓋骨の一部を一時的に外しているため、見かけでは頭にクレーター状の凹みがある。後に外した頭蓋骨を戻すために再び手術を受ける事になっている。
6. 入浴にも介助が必要。
7. 介護保険の申請をして要介護5に認定された。
8. 障害者手帳の申請も進めている。
9. 指立て伏せ(=手の平ではなく5本指を使っての腕立て伏せ)ができていたり、顔を上げた体勢で平泳ぎをしたり、ティッシュ箱を指で一突きできるくらい指や腕に筋力があった元気な身体は、歩行や車椅子である程度の介助が必要になる程までに著しく筋力と気力が低下した。
10. 排尿は挿管された管を経由していて自力では困難。母によると、尿が溜まる時は腹部を押す事もあるらしい。
11. 排便はトイレで座る事なくおむつ(リハビリパンツ)で済ませている。母によると、自身で便意や排便が分からないくらい今の父には排便の感覚がないらしい。

リハビリ先の病院における「発症からの経過」の文書(原文改)
2020年1月時点

口腔底がんで手術+放射線治療の既往歴がある。
くも膜下出血で発症し、開頭手術を受けた。入院中にお腹の中の動脈のこぶが出血し、治療済み。その間に口に食事を運べなくなる状況になった事と気管切開を行った事で全身の筋力低下が著しくなり、リハビリ先の病院へ転院。頭蓋骨の再形成の手術を待ちながらリハビリを受けている。

くも膜下出血で倒れたが、なぜ必要な栄養が鼻に通したチューブで補給されているのか、下唇の収縮はなぜなのかというと、口腔底がんで口の中を手術した影響がある。

口腔底がん

6年前に口腔底がんを患って、期間は開くが計2回に渡って手術した。2回目の手術では顎の骨を削るなどをしたため、先の写真ではその影響によって下唇が収縮している。また、太腿の皮膚を舌に移植するなどの影響で、完全にミキサー食とまでは行かないものの、食事の中心が軟らかいものになり、口の中が痛むため熱い料理はある程度冷ましてから食べる必要が生じたり、辛い料理は食べられなくなるなどの状況になった。しかし、できる限り元の食事に近い、形と食感のある料理を食べる事にしていた。昼食や夕食の調理でミキサーを使っていたのは台所からよく響く音で分かっていた。ギュオオオーーンとミキサーが回転して食材を混ぜていく音。

また、口内の手術によって声が変わった。同時に喉の方も手術をしている。この手術の時は執刀医の人から実際に摘出した部位を目の前で見せられながら母と一緒に説明を受けた。これが……と内心思いながらじっと見ていたが、不思議と吐き気を催す事もショックになる事も無かった。しかし、何も言葉は出なかった。放射線治療も受けた。

なお、この頃は術後に麻酔が切れて意識を取り戻した後にスマートフォンを操作する気力があった。実際、手術後に意識を取り戻した後はしばらく発声ができなかったが、その時はiPod Touchのメモ帳を筆談代わりに使っていた。

近い例としてはタレントの堀ちえみさんが舌がんを患った件が挙げられる。1月7日のテレビ朝日『徹子の部屋』の出演回を見た人もいるかもしれないが、細かくこそ挙げないが父と重なる点がいくつかあった。

2020年2月2日追記:朝日新聞の公式YouTubeチャンネルに堀ちえみさんががん治療や復帰への思いを語る動画が掲載されたので紹介する。

父は口腔底がんの影響で筋力・体力の低下はあったが、営業職から内勤に変わって職場復帰を果たしていた。

父が口腔底がんで入院する様子や退院後の自宅での食事の様子などの写真はほとんど撮っていない。撮ってあった数少ない写真の1つが七輪でのミニバーベキューだった。

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2016年9月、庭でしいたけ、ピーマン、牛タンを七輪で焼く様子。

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奥の皿は父。ピーマンや牛タンが真っ二つに切れているのは食べやすくするためにハサミを使って切ったもの。この時に限らず、食事の時は基本的に食べやすくするための工夫としてハサミをよく使った。

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俺の皿。七輪で焼いたピーマンと牛タン。

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サンマも焼いた。父が腹わたを嫌うので焼く前に取り除いている。

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父の皿。大分食べ残しているが本人は食べ終えたつもりだ。この好き嫌いは口腔底がんを患う前と変わっていない。残った分は俺や母が食べた。

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母と俺の分のサンマを合わせたもの。父の皿とは対照的なのが分かる。

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またある時はサンマや牛肉に加えて松茸を焼く事もあった。

この時は一緒に夕食を食べているが、普段の昼食や夕食は一緒のテーブルではなく、俺と母は全く別の部屋で食べていた。この頃の事を母は「別々のメニューを作っている以上、一緒の食事を囲む事は難しいという考えをしている」と後に明かした。そんな状況下にあったが俺は何の疑問も持たず、何も意見を言わず、理由も尋ねなかった。

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2015年9月、口腔底がんの手術から退院した後の様子。撮ってあった数少ないもう1つの写真。アクリル板をカッターナイフで切って、いわゆる「お手軽3Dホログラム」に使う逆ピラミッド(右)を作る父(左)。

見舞いやリハビリの様子

くも膜下出血の手術を終えた後のリハビリの際は父はベッドから車椅子に移ってリハビリに取り組んでいる。手すりを使って立ち上がる訓練や右腕を机の上に置いて手を握る訓練などを見たが、筋力が落ちて痩せた身体がベッドの上で横になっている時よりも分かりやすくなっている。

入院とはここまで筋力が落ちるのか、と思った。母はほぼ毎日見舞いに行っているが、様子を聞くに、リハビリ先にストレッチャーに乗って転院した当時に比べれば進んだが、そこから先の変化はあまり見られないらしい。

見舞いに行ったある時、保険に関わる話を母が父に伝えているのを見たが、難しい単語への理解力が落ちている様子だった。また、午前中に伝えた内容を夕方には忘れてしまう様子でもあった。紙に書けば良いのではと言ってはみたが、母曰く、父には紙に書かれた内容を読む気がないという。

患者の家族は何をしているのか

ソーシャルワーカーさんとのやり取りや勤務先関係とのやり取り、その他の手続きの全てを母が行っていて、息子である俺自身は何も触れていない。かと言って傍観しているわけでもなく、母との会話で父の現状の把握だったり、手続きについて大まかな事を聞きかじっている。

引っ越しも計画されている。父が車椅子生活になると見込んだ母が決めた。引っ越し先は老人保健施設に入所する祖父が空けているマンションの1室。元々祖父はマンションでの1人暮らしへの復帰を目指して老人保健施設に入所していたが、先述の状況から父の車椅子生活が見込まれるため現在の家からマンションの1室への引っ越しが必要になる事を伝えた所、それを承諾してくれた。しかし、承諾と同時に祖父は1人暮らしへの復帰を諦めて老人ホームへの入居を検討する事になった。孫である俺はその話をただ聞いて受け入れるだけだった。誰のせいでもない。誰かが悪いという事ではない。その時の最善の選択だったのだろう、と思うしかない。

引っ越しの前準備として、引っ越し先になるマンションの1室の整理を行った。祖父が過去に撮った写真の一部や母の少女期のアルバム*1、祖父が買った書籍などを処分した…処分せざるを得なかったのだ。また、ソファと俺が生後7か月頃に亡くなった祖母を祀った仏壇などの家具はリサイクル業者の方に依頼して引き取ってもらった。

*1 処分が惜しくて処分作業中…ゴミ袋に詰める作業中にスマホで撮れるものはざっと撮った。「今まで見向きもしなかったでしょう。」と言われながら。無情にも写真を処分すると言われた際は思わず「ふざけるな!せっかくじいちゃんが撮った写真を処分するのか!」と憤ってしまった。それまで見向きもしなかったが惜しさが募った。最近、富士フイルムの「アルバム写真のスキャンサービス」のCMを見たが時既に遅しだった。CMを見た瞬間、内心は「クソッ!!もっと早く知っていれば…!!」と思った。

1人暮らしのマンションの1室に3人家族が引っ越すという事で、物を減らす事が求められるのだが……個人的には苦慮した。書籍が10冊以上という条件を満たしていたのでブックオフオンラインの宅配買取を使ってある程度の書籍の処分をしたが、更に減らすように言われてしまったあたりで苦慮した。Twitterとかで本の内容を思い出そうとする時に手元で紙の本を参照するので、そんな時の事を考えていつか使うと思うと苦慮した。

自宅の方も食器類などを処分した。母のブランド品はブランディアに送った。メルカリやジモティーなどで売り手・引き取り手が見つかるまで在庫を抱える事は邪魔でしかなかったので使っていない。また、祖母(=母の実母)の着物があったのだが、バイセルの出張買取を利用して買い取ってもらった。

CMでは着物の買取のイメージが強いバイセルの出張買取は着物だけではないと知ったのは査定士の人から教えてもらって初めて知った。事前にホームページを見ていなかった。

プラスチックの衣装ケースが40個程あったが、粗大ゴミ等として出す手間を省くため、庭に出て最初の10個を足で粉砕して*2燃えるゴミとして出したが、残った物は他の家具関連と共に処理場へ直接持っていった。プラスチックの衣装ケースの処分の手間から、折り畳めて処分がより簡単な布製の衣装ケースに変える事になった。以下ではイメージしやすい様にいくつか例を挙げている。

*2 玄翁のような小型ハンマーで割ろうと振りかざしてみたが、衣装ケースの弾力が強く、ハンマーでは割りづらいと判断した。

引っ越し先には自室となる部屋があるが、今の自室より狭い。押し入れがないので収納力も激減する。使う事になる本棚とセットになった新たな机も設置済みだが、奥行きが今の机より短い。本もある程度を運び入れたが、新書サイズの本で奥と手前の2列を形成できるのがせいぜいで、『ビジネスモデル2.0図鑑』(近藤哲朗、中経出版、2018年)や『NEVER LOST AGAIN グーグルマップ誕生』(ビル・キルデイ著・大熊希美訳、TAC出版、2019年)などの様な新書よりも横に長い本を入れると、新書を置くと本棚の扉の開閉の妨げになる程の奥行きが埋まった。

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引っ越し先の部屋に設けた本棚。適当に本を突っ込んだ。全く読んでない本もあれば、1回読み終えて古本に出さないまま持っている本もある。読んでいない本が溜まっているばかりなので決して良い状況ではない。

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引っ越し先へ本を搬入する直前の本棚。新書より大きなサイズの本を入れても奥と手前に2列作る事ができた。

自分

父がどれくらい回復するのか分からないが、引っ越し先への介護ベッドの導入も検討されている。そのためにソファは処分した。ベッドから車椅子への移行の補助や痰の吸引をする練習を母が行っている。息子である俺自身にその話は未だに振られてきていないが、そのうち俺も痰の吸引をするのだろうというのは想像できる。

今年は友人に年賀状を送るかと考えていたものの、年賀はがきのデザインにすら手を付けず、年賀状が送られてきても返しの年賀状や寒中見舞いすら書く事なく今日に至っている。

直近で有期雇用が決まっているがそれでもまだ就職活動中の身である俺自身、会社に自身の障害を伝えるオープン雇用はもちろんの事、もっと先を考えるならば介護休暇の取得・介護休職をしながら働く事を考えなければならないと思うと、仕事で効率よく成果を挙げられるか不安になる。インターンシップでリモートワークを経験したのもあって、決してリモートワークができない・リモートワークが嫌いというわけではないが、仕事への緊張感などを考慮すると出社あるいは外出して勤務する方が自分の身に合うと考えている。

まだ何も話をしていないし、何も作ってもいないが、Amazonの「ほしい物リスト」を作る時も来るのだろうかと考える事もある。

1人で、家族だけで抱えてはいけない

ここまで書いてきたが、こうした状況を1人で、家族だけで抱えてはいけないというのは分かっている。介護サービスを上手く利用して頼りまくるというのは日経ビジネス電子版に掲載されている航空科学ジャーナリストの松浦晋也さんの連載『介護生活敗戦記』とその連載に基づく単行本『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(松浦晋也、日経BP社、2017年)を読んで学んだ。俺自身は兄弟姉妹がいない上に、母も兄弟姉妹がいない。親子揃って一人っ子だ。親類はいるが遠方に住んでいる。なおさら介護保険制度を使って介護サービスに上手く頼りまくるしかない。

連載と著書は認知症となった松浦さんのお母様の介護について書かれている。『介護生活敗戦記』の連載時期は父の食事のサポートと水頭症によって要介護3に認定された祖父(=母の実父)の介護*3を母が担っていたので、その状況を目にしていたのもあり、全く表に出さなかったが身近に感じながら読んでいた。自分の家族は認知症ではないが、連載と著書から介護という共通点を見出していた。

*3 デイサービスの利用や訪問ヘルパーの人が入浴の見守りをするなど。訪問ヘルパーの人が来ない日は母が祖父の家に通って入浴の見守りなどをしていた。食事は宅食サービスを利用した。宅食サービスが無い日は母がコンビニの冷やし中華などの弁当類を買って冷蔵庫に入れていた。祖母(=祖父の妻/母の実母)が亡くなってからの姿しか知らないが、1人暮らしながらも以前は元気に自ら買い物をして毎日自炊をしていた。しかし、今となってはその姿を見る事はない。

また、料理研究家のクリコさんの連載『ダンナが、ガンになりまして』も読んでいた。ご主人であるアキオさんが口腔底がんになり、流動食が必須の生活になった所はまさに父と重なった。

参考になるかもしれないと連載に基づく単行本『希望のごはん 夫の闘病を支えたおいしい介護食ストーリー』(クリコ、日経BP社、2017年)を買って試行錯誤していた母に渡してみたが、日によって味覚に好調・不調の波がある事(=昨日食べられても今日は無理、翌日も無理だったけど翌々日は問題なかったという状況など)や父の好き嫌いを考慮してか試す事は無かった。

去年新たな著書が出ていたのをこのnoteを書いている最中に知った。

まだ読んでいないが、『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』(酒井穣、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2018年)もいずれは読もう。

それでも、これまでにいくつか「仕事と介護」に関するウェブ上の記事を読んできたが、介護離職は避けなければならないという意識は持っている。

年齢

父は今年(2020年)で60歳になる。

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読んだ後は投げ銭のほどよろしくお願いします。日々の活力になります。Amazon欲しい物リストもよろしく:https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/9FWMM626RKNI