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『君たちはどう生きるか』を解釈してみたよ。


はじめに

 宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されて4ヶ月ほどが経った。SNSやブログ、動画投稿サイトなどでは数々の「考察」や「解説」が溢れている。確かに、この作品はかなり難解だ。かくいう自分も「面白かったから」ではなく「わからなかったから」という理由で、2回目を観に行ったくらいである。

 多くの人同様、私も映画やアニメの作品分析に長けているわけではないので、この作品を解釈し、咀嚼するのに時間がかかった。しかし、(素人目で見ても突飛な内容であったものも含めて)インターネット上のさまざまな「考察」や「解説」は自分の思考を整理する上で役立ったので、自分もこのインターネットの片隅に自分の意見を残すことにしたい。

 もちろん、真に文学的な(研究的な)「考察」や「解説」は専門家に任せる。本記事内の内容はあくまで私の個人的な「解釈」である。根拠も薄い稚拙な文章ではあるが、私のように『君たちはどう生きるか』を自分なりに解釈してみようと試みる人の一助になれば幸いである。

1.「塔の世界」=<理想の世界>

 まず、眞人たちが迷い込む塔の中の異世界を、本記事では「塔の世界」と呼称する。作品を見ていてまずわからないのは、この「塔の世界」とは何なのか、という点であろう。
 映画内のセリフから判断するに、この「塔の世界」はどうやら空から降ってきた大きな「石」によって生まれた世界であり、眞人の大伯父が「石」と契約して管理者となっている世界であるらしい。

 私は本作を解釈する上で、この「塔の世界」を、大伯父が<現実世界>の「悪意」(文明の発達による戦争や嘘、生きていく上で生じる種々の軋轢など)を否定し、「石」の力を利用して作り上げたストレスや苦しみの無い<理想の世界>として捉えている。
 普段我々が生きている<現実世界>には、ルールや倫理という、我々が勝手に決めた価値観が存在し、そうした価値観の対立はしばしば戦争や悲劇を生んでいる。また、災害や病気で親しい人を亡くすといった、どうにもならない不条理も数多く存在する。空から飛来したという「石」が大伯父に見せた世界は、そうした我々の価値観や不条理の存在しない、”まっさらな世界”だったのではないだろうか。あるいは、サンドボックスゲームのように”自分なりに自由にカスタマイズできる世界の雛形”だったのかもしれない。
 いずれにせよ、大伯父は「石」の力を利用して(=積み木を自分なりに積み上げて)前述のような<現実世界>の苦しみがない、<理想の世界>を作り上げたと思われる。

大伯父の考える<理想の世界>=生も、死も、他者も存在しない世界

 <現実世界>の様々な苦しみは、究極的には”生きているから”存在するといえるのではないだろうか。そもそも生まれなければ死ぬこともないし(裏を返せば、生まれるということは、死という運命が決定づけられるということであり、生と死は同義であるともいえる)、生きていく上での苦しみもないからである。また、自分と価値観の異なる”他者”の存在も、<現実世界>において非常にストレスである。
 大伯父は、そうした<現実世界>の苦しみから解放されたいと考えていたのではないだろうか。その直接的な動機は描かれていはいないが、大伯父が映画内で初登場するシーンで、脈絡なくガラスの薔薇が落ちて割れるシーンが存在する。薔薇は女性の表象として描かれることが多いので、そこから想像するに、何か女性関係の悲劇(母や妻、娘の死など)を経て、そうした不条理の存在する<現実世界>との別離を決意したのかもしれない。

 そこで、大伯父は”生きることも死ぬこともなく”、”他者の存在しない”世界を作ろうとしたと思われる。眞人がはじめに降り立った島(ベックリンの「死の島」のような見た目をしている)には何かが封印されており、門には「ワレヲ学ブ者ハ死ス」と書かれている。私は、この島に封印されているもの(=ワレ)とは「生」そのもの(生きる/生まれるという概念、生きたい/生まれたいというリビドー)であると考える。大伯父は「塔の世界」において、”生きる/生まれる=死ぬ”ことを禁止したのではないだろうか。
 また、インコは声を真似る鳥であることから、「塔の世界」のインコたちは大伯父を真似た鳥=大伯父自身のコピーであると思われる(生まれることができない、ということは自己の分裂によってしか個体数を増やせない、とも考えられる)。よって、「塔の世界」においては、生も死も存在せず、自分と同じ価値観の個体しか存在しないのであり、大伯父にとっては、<現実世界>で生じるような苦しみがない<理想の世界>なのである。

崩れゆく大伯父の「理想」

 さて、前述のように大伯父は塔の「石」の中に、自分の<理想の世界>を作り上げたのであるが、そこには1つの見落としがあった。それは、大伯父自身が元々<現実世界>の住人であった、ということである。すなわち、どんなに大伯父が<現実世界>の価値観を捨て去って、<理想の世界>の管理者になろうとしても、無意識的な欲望や固定観念は捨てきれなかった、ということである。

「生」=「死」の欲望
 大伯父は「生」を門のあった島に封印していたが、実はそれでも自身の中に無意識的に存在する「生まれたい=死にたい」欲望は抑え切ることはできていなかったのではないだろうか。そのことは、キリコの家がある島(こちらもベックリンの「死の島」の見た目をしている)に表れている。キリコのセリフから、あの島に存在するワラワラと呼ばれる存在は「これから生まれゆく者」であり、島内に住む黒い人々は「死んでしまった者」であることがわかる。すなわち、あの島は「塔の世界」の中で唯一「生」と「死」が存在している場所であり、大伯父の作り上げた世界にそうした場所が存在するということは、大伯父の中にもそうした「生」と「死」への欲望がわずかに残存していたことを表しているのではないだろうか。

 私は調べていて初めて知ったが、ペリカンはキリスト教においては伝統的なシンボルのようである。それは親鳥が自分の胸を引き裂き、その血を雛に飲ませて育てるという故事に由来しているらしい。
 そのことを踏まえると、「塔の世界」のペリカンたちは本来、子孫を育てる役割を担っていたが、大伯父が”生きる/生まれる=死ぬ”ことを禁止したために、本来とは逆の”ワラワラ=生まれゆく者を食べる”役割を担わされることになってしまったと考えられる。そのため、老いたペリカンはワラワラを食べるしかない自分のことを嘆いていると考えられる。だからこそ、ペリカンの群れは島に封印された「生」を解放しようとするのではないだろうか。(「塔の世界」=大伯父の作り上げた世界なので、ペリカン=子孫を育てたい、「生」を肯定する大伯父の欲望、と捉えることもできるだろう。)

社会性と「悪意」
 大伯父のコピーであるインコたちも、コピーであるが故に大伯父の中にあった<現実世界>における社会性を引き継いでしまっていた。それは、人間が集団として生きていくための規律や身分制、それによって生じる残虐性や格差といった「悪意」である。インコたちは結局、<現実世界>の我々と同様に王様やルールを作り出し、集団を維持するために嘘や殺しも行うようになっていったと考えられる。(だから平気で眞人を騙して殺そうとする。)

 以上のような点で、大伯父の<理想の世界>は彼の「理想」とは程遠い世界となって破綻しかけていたと思われる。ゆえに、大伯父は自分のように<現実世界>の価値観に染まっていない後継者=血縁の子供を求めていたと考えられる。

2.母に救われ、大伯父を否定する眞人 

<現実世界>を受け入れられない眞人

 本作の主人公・眞人だが、彼は<現実世界>に対して嫌悪感がある。それは、作品の前半で周りの大人や屋敷が不気味に描かれていることにも表れているだろう。具体的に眞人としては、以下のようなことが<現実世界>における受け入れ難いことだと思われる。

・火事による母の死
・戦争(人殺し)で稼ぐ父と、それによって豊かな生活を送れている自分
・叔母が義母となったこと
・自分とは全く生活環境が違う同級生との軋轢

 眞人はこうした現実から目を背けたいと考え、自らを石で殴ったのではないだろうか。家のベッドにいれば、現実と向き合う必要はないからである。また、<現実世界>に馴染めない自分への苛立ちが、自傷という形で表れたとも考えられる。
 そうした<現実世界>に染まっていない子供の眞人だからこそ、青サギが「塔の世界」へと誘い、大伯父が後継者にしようとしたのではないだろうか。

母が遺した『君たちはどう生きるか』を読み、<現実世界>を受け入れることを決意

 そんな眞人は、青サギを倒すために弓矢を作っている途中で、母の遺した『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)という本を見つける。その本を読んで、彼は涙する。彼が『君たちはどう生きるか』という本をどのように捉えたのかは想像するほかないが、主人公のコペル君と自分を重ね、生きづらいと思っていた<現実世界>でどう生きるかに、ひとまず自分なりの答えが出せたと思われる。
 そうした自分の生き方の指針となるようなことが『君たちはどう生きるか』という作品に書かれていたのだろうし、それがそのまま亡き母からのメッセージでもあるという事実に、彼は涙したのではないだろうか。この本を読んだことによって、彼は子供っぽい自分を脱し、現実と向きあう大人へと、わずかながら成長したのである。というのも、このシーン以降、眞人から前述したような<現実世界>への嫌悪が感じられなくなるからである。通常の映画であれば終盤にあるであろう、主人公の心情変化というクライマックスが、この作品では中盤にあるということも、この作品を難解にしている要因であるように感じる。本作の後半は眞人というよりも、後述するヒミや夏子の心情変化がフォーカスされていると思われる。

 さて、『君たちはどう生きるか』を読んで<現実世界>を受け入れることを決意する眞人だが、そんな彼の決意を象徴的に表すのが、眞人の夏子への態度である。夏子が塔へと歩いていくのを見ても『君たちはどう生きるか』を読む前の眞人は無視していたが、『君たちはどう生きるか』を読んだ後の彼は、「母の妹である夏子が新たな母親である」という現実を受け入れることを決意したために、夏子を助けに行こうとするのである。眞人は、彼女を助けるために「塔の世界」へと赴くのであり、それは決して<現実世界>からの逃避ではない。後述するが、同じく「塔の世界」へと誘われるヒミや夏子との大きな違いは、そこにあるだろう。

「塔の世界」の理想を否定する眞人

 「塔の世界」へと入った眞人は、
 ・自分を導き支えてくれる「父」であるキリコ
 ・現実ではもう会えない「母」であるヒミ
 という、理想的な親に出会う。(キリコも「母」であるという考え方もできるが、中性的な見た目や、船乗りであり、魚の解体などが得意であることを考えると、眞人にとっては「父」としての存在に近いのではないかと感じる。)つまり、眞人にとって「塔の世界」は子供のままでいられる、過ごしやすい世界でもあったのだと考えられる。

 しかし、前述の通り既に<現実世界>で生きることを決意している眞人は、こうした<理想の世界>の誘惑にも全く動じることはなく、キリコとも別れを告げるし、ヒミに対して息子として接しようとはしない。
 キリコの家で寝ている際、キリコに「触ってはいけない」と言われた、(どうやら眞人を守っているらしい)人形も、眞人は臆することなく触っている。このことからも、眞人が既に大人の庇護に甘えるだけの存在ではなく、自立しようとしていることが窺える。

 そして、最終的に大伯父から「塔の世界」の後継者を託されそうになっても、結局は「塔の世界」も「悪意」の存在する虚構の理想であることを見抜き、後継者となることを拒否する。大伯父の理想はここにおいて完全に否定されるのである。

3.眞人によって「塔の世界」から解放されたヒミ

「塔の世界」で救われていたヒミ

 作品の後半、大伯父の作った「塔の世界」に、過去にヒミ(ヒサコ)が囚われていたことが、召使の老婆たちの話でわかる。「塔の世界」=<理想の世界>と考えるならば、ヒミもまた眞人と同じように<現実世界>が嫌になったことで、「塔の世界」に誘われたのだと思われる。その原因(<現実世界>での嫌なこと)は描かれていないのでわからないが、ヒミも眞人と同様に母親を亡くしているようなので、そのことかもしれない。
 いずれにせよ、ヒミは<現実世界>が嫌だったのであり、そのため「塔の世界」という<現実世界>のストレスがない世界に救われていた部分も大きかったのではないだろうか。でなければ、1年も「塔の世界」にいないだろう。そして、「塔の世界」に救われていたからこそ、その創造主たる大伯父のことを好いていたのであり、涙を流して別れを惜しんだのではないだろうか。

 また、そうした<現実世界>を離れることができたヒミは、「塔の世界」の後継者候補の1人だったように思われる。ヒミは少女であり、まだ<現実世界>に存在する大人のルールや悪意に染まっていないからだ。
 しかし、ヒミも大伯父と同様、心の奥底に「生まれたい=死にたい」欲望を持っていた。そのため、炎(生命の情動を表しているのだろうか)を使って、ワラワラをペリカンから守ろうとしたと考えられる。(ただし、「生きる」ということは「死」と隣り合わせなのであり、ヒミの炎はペリカンだけでなくワラワラも燃やしてしまう。)ゆえに、ヒミは大伯父の考える<理想の世界>の管理者としては不適格だったといえるだろう。

眞人によって「塔の世界」から解放されたヒミ

 さて、「塔の世界」で暮らすヒミのもとに、「上の世界」=<現実世界>から眞人が訪れる。後述するが、眞人は「塔の世界」=<理想の世界>を否定し、最終的には大伯父の提案を断り、<現実世界>へと帰ることを宣言する。このことは、ヒミにとっては衝撃であり、それまでの自分と異なり<現実世界>を受け入れて逞しく生きようとする眞人に感動したと思われる。
 ゆえに、そんな「いいやつ」な眞人が生まれる世界なら、苦しみのある<現実世界>で「生きて」、火事によって「死ぬ」ことも構わない。この眞人という少年の母親として命を繋いでいきたい。そんな思いで眞人を抱き、<現実世界>へと戻っていったのではないだろうか。だからこそ、<現実世界>で強く生きてほしい、という願いを、実際に母になった際に『君たちはどう生きるか』という本に託したのだと思われる。

4.眞人によって「塔の世界」から解放された夏子

 <現実世界>から逃げ出した夏子

 眞人の母ヒサコの妹であり、眞人の新しい母である夏子。眞人の視点で描かれる作品内においては、いきなり赤ん坊のいるお腹を触らせるなど、少し不気味な存在、価値観を理解できない存在として描かれている。たしかに、現代の我々の感覚からしても、実姉の死後にその夫と結婚して子供をもうけるというのは受け入れづらい。
 しかし、夏子からしたら眞人こそがストレス源であっただろう。こちらは仲良くしようと試みているのに、眞人は中々心を開いてくれない。また、時代的な背景もあるにせよ、姉が亡くなってその夫と結婚した自分への罪悪感も少なからずあったと思われる。そうした<現実世界>へのストレスは体調不良という形で現れ、最終的にはヒミと同様「塔の世界」=<理想の世界>へと誘われていくことになる。夏子は、自身もお腹の中の子供もこんな<現実世界>で生きることはできないと考え、「塔の世界」で子供を「生もう」(生も死も超越した存在になろう)と<現実世界>から逃避する。
 一方、大伯父からすると、夏子の子供は自分の血縁かつ、全く<現実世界>に存在する大人のルールや悪意に染まっていない存在であり、彼もまた「塔の世界」の後継者候補の1人であったと思われる。そうした「塔の世界」と夏子の利害が一致した結果、彼女は「産屋」に囚われることになったのではないだろうか。

眞人によって「塔の世界」から解放された夏子

 「産屋」に籠っていた夏子。眞人が彼女を助けに現れると、当然、彼を拒絶する。しかし、眞人は夏子のことを「お母さん」と呼ぶ。そのことによって夏子は、眞人が自分を受け入れてくれたことを知り、<現実世界>でも生きていけるかもしれないと感じる。つまり、「産屋」から出て<現実世界>へ帰りたい、と考えるようになったということであり、その時点で彼女も眞人と同様に「石」=「塔の世界」から拒絶される存在となったと思われる。実際に、夏子が眞人の言葉に驚いたところから、「産屋」内の紙吹雪は夏子にも向かうようになる。
 この眞人の言葉とヒミの協力によって、夏子は「塔の世界」から解放されたといえるだろう。

5.青サギ=大伯父が捨てた「人間らしさ」

 これまで触れてこなかった青サギについても、ここで触れておきたい。私は、青サギ=大伯父が捨て去った、大伯父の中にある<現実世界>での「人間らしさ」ではないかと思う。大伯父は「塔の世界」を作るにあたって、自分の中にある<現実世界>の価値観や欲望(ないし<現実世界>を捨てきれない心)を青サギとして切り離したのではないだろうか。だとすると、大伯父が青サギを「愚か」だと評するのも頷けるし、青サギがどこか泥臭いおじさんであることも頷ける。また、嘘や虚栄で身を固めている青サギは、<現実世界>に生きる大人を象徴しているようにも感じる。<現実世界>の価値観を有しているがゆえに、青サギは「塔の世界」と<現実世界>を行き来できるのだと思われる。

 よって、青サギは眞人に<現実世界>で生きることの良さをそれとなく示唆する存在となっている。例えば、眞人が<現実世界>で生きることを決意するのは、『君たちはどう生きるか』という本を見つけたからだが、そのきっかけとなったのは青サギの羽を使って矢を作っていた時である。私は、これは青サギ(の羽)がわざと矢を動かして、眞人に『君たちはどう生きるか』を発見させたのだと考える。というのも、この後、眞人が青サギを矢で射抜いた際、青サギから「なぜ弱点がわかった?」と問われ、眞人は「自分で言っていた」と答えるシーンがある。確かに、青サギは自身の弱点(カゼキリノナナバン? というものらしい)を口にしているが、冷静に考えると青サギが弱点について言及したのは矢に射抜かれた後であり、時系列的におかしい。よって、実は青サギが自らの弱点について「独り言」を言ったというのは、実際に青サギがしゃべったのではなく、羽を使って矢を動かし、眞人に『君たちはどう生きるか』を発見させたことを指しているのではないだろうか。それならば、このシーンのセリフの辻褄が合う。

 そして、青サギの弱点とはすなわち、「理解できない”他者”を恐怖しない強い心」ではないだろうか。物語前半で青サギが恐ろしく描かれてるのは、眞人にとって青サギが理解不能な存在だからであると考えられる。しかし、『君たちはどう生きるか』を読んで、「<現実世界>に存在する理解できない”他者”(特に作中では夏子のこと)」との対話(妥協)を試みることができるようになった眞人にとって、既に青サギもまた恐怖・嫌悪の対象ではなくなっていた。そのことを、眞人の矢を受けて青サギが怖い鳥の姿から滑稽な男の姿へと変化することで表現していると、私は考えている。
 青サギは最終的に眞人の友達となる。これは眞人にとって、初めての友達と言ってもいいだろう。眞人が、根本的には価値観の異なる"他者"のことを理解し、共存する道を選んだことが、青サギとの関係性からみえてくる。

6.眞人が最後に「一欠片握り込んだ」もの

 さて、これまで主要人物の変化と物語の構造を自分なりに解釈してきたが、個人的に最も美しいと思うのは、ラストシーンで眞人が「塔の世界」から「石」をこっそり持って帰ってきたことである。青サギはそんな眞人を「素人」だと言い、そして「どうせすぐに忘れちまう」と告げる。眞人が「塔の世界」から持ち帰った「すぐに忘れてしまう石」とは何なのだろうか。
 私は「我々が子供の頃に感じた、理想への憧れ」であると考える。「塔の世界」が大伯父の創った<理想の世界>であることは先に述べたが、その解釈を基盤とすれば、眞人の持って帰ってきた「石」は「理想の世界の欠片」ということになる。すなわち、眞人は「塔の世界」を否定しておきながら、その素晴らしさに後ろ髪を引かれているのである。
 唐突だが、誰しもが幼いときには、何かに夢中になり、ワクワクしていたと思う。スポーツや映画、小説、なんでも良いが、子供の頃はそれらが輝いて見えたのではないだろうか。自分には手の届かないものへと手を伸ばし、自分が理想とする世界へ、後先考えずに挑戦したり、触れたり、参加したりしたのではないだろうか。それは本作において、<現実世界>のしがらみにとらわれずに「塔の世界」を創り上げた大伯父と同じであるように思う。大伯父は「子供みたいな大人」だったとも言えるだろう。
 
しかし、我々は大伯父のようにはいかない。大人になるにつれて、世の中は自分の好きなこと、理想のものだけで構成されてはいないことを知っていく。そうしていつか夢見ることをやめ、眞人のように<現実世界>を受け入れていくのである。その意味では、眞人は「大人みたいな子供」だったといえる。大叔父と眞人は、実に対照的に描かれているのである。
 ただし、そんな眞人も大伯父との対話を経たことで感化され、「石」=「理想の世界の欠片」を持って帰ってきてしまう。つまり眞人は、<現実世界>で生きることを選択してもなお、<理想の世界>への憧れ・渇望を持ち続けていたのである。そうした「理想への憧れ」は我々同様、大人になるにつれて「どうせすぐに忘れちまう」ものなのかもしれない。しかし、本作のラストには、眞人が最後にポケットの中(に存在するであろう「石」)を確認するシーンが存在する。ゆえに、眞人がそうした「理想への憧れ」を失わずに生きていけるのではないか、という希望を感じさせるラストシーンとなっている。
 
このラストシーンを踏まえると、主題歌である米津玄師『地球儀』の歌詞が味わい深く心を動かしてくる。「ひとつ寂しさを抱え」て、「道を曲が」りながらも、「また出会う夢を見」て「秘密を忘れぬように」「一欠片握り込んだ」。そして、「光さす夢を見」て「飽き足らず描いていく」。まさに、眞人のことである。この主題歌もまた、作品の重要な一部であると感じざるを得ない。

おわりに

 以上から、『君たちはどう生きるか』という作品の大まかなストーリーは、「眞人が、義母である夏子を助け出すために、大伯父が作った理想の異世界へと赴き、その異世界を否定して元の世界に戻ってくる」というものだったといえる。しかし、その中で眞人・ヒミ・夏子・大伯父という主要人物らの心情変化を同時並行的に描くことで、物語は難解かつ重層的な魅力を帯びているように思う。最終的には、眞人が「理想への憧れ」を失わないところに、希望すら感じる作品であったように思う。
 そしてもちろん、本作には宮﨑駿監督独特の世界観・アニメーション表現という魅力があることも忘れてはいけないだろう。作画監督の本田雄をはじめとしたアニメーターたちが、宮﨑駿イズムをこの令和の時代に蘇らせてくれた。その事実に思いを馳せながら映画を鑑賞してみるのも一興ではないだろうか。

 現実世界を受け入れつつも、理想の世界への憧れを捨てなかった眞人。そんな彼の物語は、我々が幼少期に手に入れて、まだ心の奥底で「一欠片握り込んでいる」原初の憧憬を思い出させてくれるのではないだろうか。

(終)


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