【短編】イルカ -Stranding-
「イルカ -Stranding-」
浜辺を歩いていた。
目的はなかった。ただ、落ちていく陽を眺めていた。
寒くはなかった。ただ、潮風で薄手の上着が揺れていた。
楽しくはなかった。ただ、忘れたいだけだった。
「よう」
ふいに、足元から声がした。イルカだった。
イルカは砂浜の上にいた。なぜだか、イルカが喋ったことよりも、イルカが陸の上にいることの方が、私には異様だった。
「こんなところで何してるんだ? お前くらいの年齢の人間ってのは、この時間は働いてるもんじゃないのか?」
もう労働が美徳とされる世の中じゃないのさ。私は強がって答えた。
「かといって、働かないことが美徳なわけじゃないだろうに」
ニヤリ、とイルカが笑った気がした。嫌な言い方だ。……まあ、その通りなのだが。イルカというのは、思っているよりも生意気な動物らしい。
「なら、暇だろ。ちょいと話を聞いてくれないか」
イルカは私の答えを待たずに、乾いた声で話し始めた。私は彼の話を聞くことにした。実際、私は暇だった。
「イルカはイルカだ。そうだろう?」
そうだ。当たり前のことを自信ありげに話していた上司の顔が浮かんだ。
「イルカは水の中で生きるものだ。そうだろう?」
そうだ。結婚して子供を授かり、幸せそうに笑う友人の顔が浮かんだ。
「水の中で生きるということは、陸の上では生きないということだ。そうだろう?」
そうだ。小学4年生の時に家を出て行った父の背中をぼんやりと思い出す。
「陸の上で生きるということは、死ぬということだ。そうだろう?」
そう……、かもしれないな。机の引出しにしまってある遺書のことを考えていた。
「でも、俺は水の中が嫌いだった。自分がイルカとして生まれたことが嫌いだった。陸の上で生きたいと思った。そういうことってあるだろう?」
まあ、あるかもしれないな。幼い頃、将来は宇宙飛行士になって火星に行くのだと思っていた。それが簡単ではないことを知ると、すぐに諦めたけれど。
「海は確かにいいところだったさ。どこまでも続く青、色とりどりの魚たち、光に照らされる珊瑚礁。俺は満たされていた。俺を縛るものなんてないと思ってた。わかるか?」
わかるかもしれない。名のある大学を卒業し、誰もが聞いたことのある企業に就職している私は、外からは順風満帆に見えるのだろう。
「でもある日気づいたのさ、自分が水中でしか生きられないことに。俺は海の中では自由だった。でも、それは海に囚われてたってことだ。わかるか?」
わかる気がする。自由に生きることができる大人なんてほとんどいない。私は大多数と同じように、やりたくないことをやらなければ生きられない大人だった。
「だから俺は陸を目指した。そして、ここに辿り着き、今、お前と話しているというわけだ。そして、俺はお前に1つ頼みがある。聞いてくれるか?」
とりあえず、聞くだけなら。
「陸の上は居心地がいいが、食べ物だけは中々手に入らないんだ。通りすがりのお前に頼むのも気が引けるが、これから毎日、食べ物を運んできてくれないか? 人助け、いやイルカ助けだと思って」
その海岸はほとんど人の来ない場所だった。自分が断ったら、恐らくイルカは死ぬだろう。だから、私はこの頼みを受け入れることにした。イルカ助けも、たまには良いと思った。
その日から、私はイルカに食料を与えるために例の海岸へと赴くようになった。そして、イルカと様々なことを話した。
自分たちのこと、家族のこと。好きなもの、嫌いなもの。どう生きるか、どう死ぬか。
イルカは思ったよりも話しやすいやつだった。彼と話すことが、毎日の楽しみになっていた。
1ヶ月が経った頃だった。
私は久しぶりに出社していた。会社の雰囲気も同僚たちも、私が休む前と特に変わってはいなかった。私がいなくても、組織は成立していたし、私が失敗しても、それまで通り仕事は続いていた。
イルカには、仕事帰りに会いに行くようになっていた。
「遅かったじゃないか。もう腹ペコだぜ」
労働は美徳ということさ。思ってもいないことを言ってみる。
「最近はお前も仕事のことばかり。人間らしくなったもんだ」
余計なお世話だ。
「ま、俺もだいぶ陸で生きることに慣れてきた」
相変わらずの乾いた声でイルカは喋る。「なんでだろうなぁ。海の中みたいに泳ぎ回ることさえできない、食べ物さえ自分じゃロクに手に入らないってのに、俺は今が人生で一番楽しいと思ってるんだ。いや、イルカなんだから人生じゃなくて、イルカ生か」
充実したイルカ生で何よりだよ。
「ハハ、これもお前のおかげだ。これからもよろしく頼むぜ、相棒」
ああ、任せてくれ。と、言おうとして、なぜか言葉が口から出なかった。
そうしてまた幾ばくかの時間が流れた。
厚手の上着を羽織るようになった頃、私は大きな仕事を抱えていた。それは恐らく、私の人生を変えるだろうという予感があった。仕事にやりがいを感じたのは、それが初めてだった。だから、残業も厭わなかった。我ながら、そんなに働ける自分に驚いていた。
イルカのことを思い出したのは、抱えていた仕事が一段落した日の翌朝だった。そういえば、最近イルカに会っていない。私は例の海岸に赴くことにした。
……イルカは、初めて会った時と同じようにそこにいた。初めて会った時と違うところといえば、彼が死んでいたことくらいだった。
悲しくはなかった。イルカが陸では生きられないことなど、最初から分かりきっていた。
虚しくはなかった。むしろ、満足感があった。
生きるしかなかった。そして、死ぬしかなかったのだ。私も。イルカも。
凍えた砂浜の上で、私は友達だったものを見つめていた。
(終)
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