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Binge Reading(一気読み)近未来SF連載小説「惚れ薬アフロディア」プロローグから最新掲載分まで

【毎回掲載をクリックして読むのが面倒な方へ、連載12回(全部公開予定)の現在10回までを収録、5万語ほど】


プロット(あらすじ)

2050年代、3つの新興独立国を舞台に、新たに開発されたアセクシュアリティ(無性愛)の治療薬である脳内ホルモン活性剤の臨床実験が、それに関わる登場人物たちの運命を翻弄していく。

投下されるm-RNAによって生成が促されるホルモン活性剤の作用により、他人に恋焦がれるという恋愛感情を無性愛者に誘発させる治療法は、多様な性の在り方を許容すべきと強い反対の声があがってきていたが、既に臨床試験が各国で進んでいた。

その頃、世界中に拡大した地域紛争の結果として2040年代に地域統合をベースとした緩やかな独立を許容する新たな国際秩序の枠組みが形成されていった結果、2050年を前後してスコットランド独立を皮切りに将棋倒しのように欧州で10を超える地域が長年の悲願であった国家独立を達成する。

そうした多くの国で独立の熱狂が渦巻く中で、大国の支配下の長い間に気づかぬうちに埋もれてしまっていた自らのアイデンティティをひとつひとつ掘り起こすかのような、新しい若い国家づくりが取り組まれていた。

元スペインのカタルーニャ共和国と元UKのカムリ(ウェールズ)共和国の登場人物二人が、同じく元スペインのエウスカディ(バスク)共和国の首都ドノスティアで出会うことからこのドラマが展開していく。

2054年の11月のドノスティア(元サンセバスチャン)では珍しく晴れた日に、カタルーニャ共和国バルセロナの脳学者リュイスと、カムリ共和国スウォンジー在住の臨床治験者の日本人の朋美は、ドノスティアで開催された脳神経学会で出会う。


No.1 カタルーニャ共和国のリュイスの事情(1)


「…国家独立のナラティブは、自由そして民主主義の戦いとして語られると非常にロマンチックな演説として、とてもよい響きに聞こえるの…
パメラ・ロルフ、ワシントンポスト(Netflix 「2つのカタルーニャ」)

"...the independence narrative plays very well (as a ) very romantic discourse when you start talking about freedom and fighting for democracy"
Pamela Rolfe, Washington Post.

"Two Catalonias" (Netflix documentary) より



10年前の2040年代の初めの頃、まだ医学生だったリュイスは、熱狂的な独立支持派だった。

バルセロナ大学医学部の独立派学生リーダーとして、政治集会や独立への住民投票を要求する街頭デモに積極的に参加してきた。

ムンジュイックの丘での独立決起集会では、警官隊との衝突で負傷した参加者たちの治療に奔走する姿がインスタグラムで1億回も再生され、一躍有名になる。

完成間近のサグラダ・ファミリアで、リュイスがカタルーニャ語で熱く語った独立への呼びかけは、ラップにコラージュされてSNSで拡散された。「熱い独立派医学生」としてもてはやされ、選挙にでないかとの誘いが何度もあったが、すべて断っていた。

歴史家が「壮大な欧州のアイロニー」と評した、1993のマーストリヒト条約締結を起点とする欧州共同体(EU)としての統合の歴史は、50年後の2043年を経てからその加盟国内部に多くの独立国家を生み出すことになる。

2035年に達成された財政統合で加盟国の徴税と歳出がブリュッセルのEU議会の動かすところとなると、通貨統合(ユーロ)、金融政策の統合(ECB)、軍事面での統合と相まって、国家のベーシックな機能が欧州議会に集約されて地域統合の最終段階を迎えた。アイロニーは、その国家機能の地域統合の深化が、逆に加盟国内の文化的・言語的に強いアイデンティティを持つ地域の独立への引き金をひいてしまったことであった。

ポルトガルと共同開催国スペインが手痛く一次ラウンドで敗退した2030年サッカーワールドカップでも、カタラン(カタルーニャ人)達は自分たちが独自のチームを出していたらあんなことはなかったというのが、もっぱら地元のバールでの話題だった。

そして、EUではないが北の連合王国のスコットランドやウェールズが連合王国からの独立を果たして2年後の2049年に、カタルーニャも共和国として独立を果たすことになる。

その多くが、実は、かつての国家機能の重要な部分であった軍事、財政、金融などを地域統合に残してつながったままの文化的アイデンティティを満たすための国家独立ではあった。パソコンに例えたら、OSや基本的な機能は共有のプラットフォームに載せたままで、独自の言語・文化という独自のアプリのインターフェースを前面に出した使用環境を達成した、そんな国家のありかただった。以前の連合王国下の「自治州」で十分じゃないかとの反対の声も多かったが、多くの地域で独立への動きが熱狂的に支持されたのである。

著名な未来学者のペドロ・マルチネスは「2040年代の理想に浮かれた熱狂の後には、醒めた頭に二日酔いの頭痛が襲ってくるに違いない」と、将来に警告していた。

リュイスが、医者になる道は選ばず、そのまま大学の研究室に残る選択をしたのがその独立へ国中が沸き立っていた2040年代後半だった。

2020年代半ばに、日本の研究者チームが強い恋愛感情を持つと前頭葉のある領域にあるドーパミン神経が活発となるという研究を発表してから、その分野の研究が深められてきていた。

リュイスが興味をもった2040年代には既にこの分野でかなりの研究成果がでており、DNA治療で主流となったメッセンジャーRNAによって体内で免疫に特定のホルモンの分泌を促すワクチンを打つと、ドーパミン神経の感受性が高まるということもわかってきていた。

リュイスがそれを研究テーマに選ぶと、「なにそれ、惚れ薬でもつくるのか?」と同僚の研究者たちには馬鹿にされたが、リュイスはなかなか面白い研究分野だと思っていた。

リュイスはそれなりにハンサムな風貌なのだが、アラフォーにしてまだ独身。研究者にしては小綺麗なファッションもあいまり、周りには隠れゲイだから未婚なのかと思われていたが、実は若い頃に夢中になった女性がいた。それを引きずっていた。一方的な、実らなかった恋だった。情熱的にといえば聞こえがいいが、半ばストーカーのようにパリに留学した相手に会いに、相手に呆れられるほど通い続けていたが、ある時、その彼女が消息を絶った。忽然と消えてしまった。未だその傷が癒されていなかった。

あの抗えない馬鹿げた強いストーカーの恋愛感情をコントロールするすべがあるなら、それは過剰な食欲を抑える効果的な脳内ダイエット治療と同じじゃないか。あるいは、彼に人間として興味を持ってくれたがおそらくアセクシュアルな傾向で彼の想いにまったく応じてくれなかった彼女みたいな人に少しでも恋愛感情をもたらすことができるなら、それには何かしら意義があるはず。そんな考えに至っていた。

一方で世間では、そんな研究は、本来それぞれが持つ個性であるセクシュアリティや恋愛感情を人為的にコントロールしようとするもので、濫用されたり、変な人格が変わってしまうような副作用があるのではないかという懸念の声も強かった。

リュイスの考案した、メッセンジャーRNAで恋愛感情を高めたり、抑制したりする方法は、未だ研究段階であって実用化の臨床試験などまだまだ先であったが、希望者に限り、本人のきちんとした同意を取ったうえで、バルセロナでも20人ほどがリュイスの治療を受けてモニタリング対象となっていた。

昔なら飛行機で1時間ほどの元バスク地方、いまやエウスカディ共和国の首都となったドノスティアで来年の11月にはこの脳内治療を主なテーマとした学会が開催されることが決まっていた。地球温暖化対策で今や欧州では飛行機の便数が激減していて、その代わりに鉄道輸送が復活していた。

リュイスはそこでの発表のため、モニタリングからのデータの処理に追われていた。徹夜も続いていたが、ドノスティアまでは鉄道で8時間くらいゆっくり揺られて行こうと、子供の頃家族旅行で乗って車窓から見えた、壮大なピレネー山脈の高原の景色を思い出していた。 


No.2 カムリ(ウェールズ)共和国の朋美の事情(1)


飯野朋美は2021年1月、感染性疫病で前代未聞の強制的ロックダウン下のシンガポールのマウント・エリザベス病院で生を受けた。

細菌防御服を着て医療ヘルメットを被った父親が、生後間もない朋美を抱いている写真が残っている。

21世紀になる頃に日本から移住して、小さいながらもコンサル会社を経営していた父親飯野純は、疫病蔓延での経済ロックダウンで多くの日本の顧客を失って倒産の一歩手前までいったが、幸いにも3年続いた疫病禍の後、逆にシンガポールの現地企業の顧客が増えてどうにか生き残った。

ビジネスはその後も鳴かず飛ばずではあったが、家族経営のコンサル会社の経理業務を切り盛りする朋美の母の尽力もあり、永住権も確保し、物価高で住みづらくなっていったシンガポールではあったが、一家はそれなりに幸せな日々を送っていった。

父飯野純の口癖は「英語圏は広い、21世紀これからの時代は英語あってのサバイバルだ」。あたかも、このアジアの英語圏の小さな島での子育ての選択の正しさを自分に納得させるかのようにいつもそう言っていたが、それは自分の英語コンプレックスの裏返しであったともいえた。

朋美は、その後続いて生まれた2人の妹と、小中高とシンガポールの現地校で学ぶ。長女の朋美は、父の教えに素直に英語圏でサバイバルと早くから手に職をつけて自立したいと思い、シンガポールとは旧英連邦つながりの当時まだUKの一部であったウェールズの看護学校に進学する。成績はよかったのでまわりからは大学進学を強く勧められたが、不安定な父親のビジネスでは既に年間10万ドル超えに高騰した大学授業料は無理だろうと勝手に思ったこともあり、また、親から遠く離れて住んでみたいとなんとなく思っていた。

そして、2040年にはウェールズ西部のスウォンジーの学校を卒業して、当時のUKの看護師の資格を得る。その資格はシンガポールやオーストラリアでも有効であった。また、2048年のウェールズのカムリ共和国として独立後も、その資格は既に死語になりかけていたが20世紀前半まで存在した「旧英連邦」(コモン・ウェルス)の枠組みで、それらのどの国でも看護師としての登録が可能な資格であった。まさに英語圏でのサバイバルだ!と父親は喜んだ。それが朋美は嬉しかった。あくまでも家族には、良き長女という立ち位置を続けていたかった。

当年、32歳、スウォンジー中央病院勤務看護師。独身。

一見、おとなしい、日本にいたとしても実際の年より5歳くらい若く見える、かわいらしい感じ。欧州だとさらに5歳くらい若く見えるのか、よく病院の隣にある大学の学生と間違えられる。

三人姉妹の長女タイプとして世界のどんな国にでもよくいる性格。おっとりしているようで、かなり芯はしっかりしている。しっかりしているがゆえに、あまり浮いた話はなく、自分が敷いたレールの上を着実に前に進んでいる。両親からみたら、あと残りの二人のお目付け役というか、自分たちの子育ての同志として頼れる教え子といった感じであったが、朋美本人もその役割をきちんと演じてきた。スウォンジーに行きたいと言いだす前までは。

病院で看護師として勤務していても、同僚にも、医者にも、そして患者にも好かれる模範的なナースであった。いつも笑顔を絶やさず、ポニーテールを軽快に揺らしながら病室をすいすいと無駄のない動きで巡回しているのが朋美であった。

「トモミー、君はエンジェル(天使)のようだ」

よく年配の患者に言われた。それに対して、朋美は静かにほほ笑む。教会に描かれたエンジェルのようにというより、彼らにとっては謎の、遠いアジアの奥ゆかしい微笑みでもって。

実は、誰にも、親にも、親友にも絶対に話さないときめた、自分の心の奥深くに住まわせた、ある種の自我を分裂させたような存在があって、それで自分の心のバランスを保っていた。

看護学校の心理学の授業で、親から強烈な虐待を受けた子供が自分が傷ついていくのを守るために心の中に別の人格を分裂させてつくって、その人格が自我との間でバランスをとってくれる解離逃避行動があるというのを学んだ時、「あ、私にもそれある」と思った。

小学校高学年の頃だろうか、ある時、優等生的な、しっかりした長女を続けていくのが辛くなった出来事があった。

年上の中学生のシンガポール人の少年に乱暴な言葉をしつこく吐かれ、これまで無かったような怒りを感じた。言葉の暴力だったが、その言葉が自分の存在を否定し、自分の家族や出自まで卑下するようなひどいことを言われた。思わず我を忘れ思い切り怒鳴りたくなったが、そんな時、心の奥のほうなのか、脳の片隅なのか、どこかから声がしてきた。

てめえ、ぶん殴って、マーライオンの噴水みたいに鼻血ブーにしてやるぞ

それが、朋美がその夜「ワル美」と命名することになる、別人格の声だった。

優等生で優しい自分に代わって、ワルなことを心の中で言い放ってくれる存在。ワル美は、自分に敵対するすべてを罵倒し、暴力的に始末してくれる。そんなことを妄想しては、その後の人生、今日まで、どうにか心の平静を保とうとしてきた。そう妄想することで、辛いことも耐えられた。

世の中の人は多かれ少なかれみんなそんなことしてバランスを保ってるに違いないと思っていた。でも、自分のなかに「ワル美」がいますなんて、絶対誰にも言わないようにしようと決めたのであった。

よく、父親が朋美のことをシンガポール人に、漢字は朋と美だから、 Friendly Beautyという意味なんですよと説明していた。じゃあ、ワル美は Evil Beautyかしらなんて思って、欧州に来てからは密かにこの別人格をそう呼ぶようになっていた。

「天使のようだ」と言ってくる老人にも、微笑みを返しながら、心の底では Evil Beauty が「てめー、こないだ偶然のふりしてお尻さわっただろ、エロじじい」と悪態をついてくれていた。

20代の頃、ウェールズの看護学校時代にパーティで会ったウェールズ人のオワインという学生と半年ほど付き合ったことがあった。食事したり、キスしたり、セックスしたり、ごく普通のボーイフレンド・ガールフレンドの関係を一通りしたが、朋美にはその関係性がピンとこなかった。

ある日、「ピンとこない」という表現でしか言いようがない、醒めた自分を発見した。そんな感じだった。心の中の Evil Beauty も「デートも割り勘だし、あんなイカれたのと付き合ってたら時間の無駄よ」と言い放っていた。それで別れた。

イカれたというのは、オワイン、彼の名前はウェールズが15世紀にイングランドによる支配に反旗を挙げた最後のプリンス・オブ・ウェールズであった英雄オワイン・グリンドゥールと同じ名前だというのもあって、彼の両親や家族、そして本人も熱狂的な独立支持派の活動家で、停学くらって学生でもないし定職もないのに、独立派の学生運動家を気取っていたというところ。オワインが熱く語る独立への主張の一言一言すべてが、朋美の耳にはまったく意味不明のギリシャ語の文法か物理の定理のように、ただ空虚なものに聞こえていた。

以来、ボーイフレンドはいない。

同性愛的関心もあるのかしらと思った時期もあったが、どう考えてもその関心はないようだった。

看護婦仲間の親友ノエリア・プジョル、愛称ノリーがよく朋美をからかった。

「トモーミ、あなたはそれで人生楽しいの?出会いを夢見てわくわくして、キュートな彼氏と実際に出会って関係が深まっていくっていいわよ」

「ノリー、あなたはラテン系、私は東洋人、その違いがあるのよ。私にはそのわくわくはないし、そのわくわくがない人生なのかもしれないのよ。それにあなた、いつもぽーっとのぼせあがって、最後は手痛い別れで終わるじゃない。親友としてはそれを見るのが辛いのよ」

「まあそれは否定できないわね。いつも、失恋のどん底からあなたのその東洋的な悟りのような静謐な慰めの言葉に救われてるわね。でもね、人間の関係って、安定はしないのよ。ゆらゆら揺れ動かされながらも、どうにか続けていくのよ、私の祖国みたいにね」

ノリーは、欧州のフランスとスペインの間のピレネー山脈の山奥の谷あいにあるアンドーラ王国という小国の出身だった。人口たった7万人。言語的にも文化的にもカタルーニャであるといえるが、紀元803年にフランク族が建国して以来、ずっと独立を保ってきた国である。

もちろん、中世から現代にいたるまで、欧州の政治に翻弄されながらの歴史であり、フランスとスペインという2つの大国の緩衝国として綱渡りの政治を続けてきた国ともいえる。建国後、2つのカタルーニャ系の伯爵一族が争った結果として2つの伯爵家の対等な共同統治となったが、中世末期にその一方が政略結婚でフランスのブルボン家となったことから、共同統治の一方がフランスの元首ということになる。その歴史から、アンドラ王国の軍事そして外交は基本的にフランスかスペインに委託しており、EUにも属さず、21世紀初頭まではタックス・ヘブンとして、山奥の雪深きスキーリゾートにすぎない一都市が、ひとつの独立国として存続しつづけてきた。

「アンドーラはね、二人の男をじょうずに手玉にとってる自立した女性みたいにね、めんどくさいことは男に任せておいて、自分のやりたいこと、文化とかもっと奥深い事を極めている国なのよ」ノリーはよくそう言っていた。

「トモーミ、でもあなたにあの心を焦がすような、彼のことを考えたら夜も寝られなくなるような、あの恋の気持がないんだなんて言わせないわよ。人類みんなが持ってる感情なのよ。とても素敵な、それ自体が生きていることの目的のような気もするそんな感情。あなたも、心の奥にそれを隠している。そこにあるんだけど、なにかが邪魔して放たれてない密かな炎なのよ」

「『別れがこんなに甘く切ないなら、おやすみなさいと朝になるまで言い続けていたいわ』って、お隣イングランドのシェイクスピアも恋したジュリエットに言わせてる。

君に出会った奇跡がこの胸にあふれてる、きっと今は自由に空も飛べるはず』、スピッツだったっけ、あなたの国のオールディーズの歌謡曲でもそう歌ってたでしょ。

あなたに、あの気持ちを感じでほしい。それが親友としての私の想いなの」いつも、ノリーはそんなことを言う。





2053年のある朝、夜勤明けの朋美は寝ようとすると、ノリーからのメッセージがある。

「トモーミ。これ見た?まだだったら見て。アセクシュアルの自主選択的治療のLINK」

「バルセロナの医者がEU EMAに認可申請中の治療らしいのだけれど、カムリでも臨床試験を30人くらい募集しているのよ。メッセンジャーRNAでの脳内ホルモン活性化だからそんなにリスクは高くないと思うの。それに、成人の場合、パートナーや親友が「後見人」になって、治療の効果で精神的に不安定になりそうだったら本人が希望しても治療を停止できるってあるでしょ。私、あなたの後見人になりたいの。ぜひ検討してみて」

徹夜で頭がぼぅっとしていた朋美は返事もせずメッセージを削除して、深い眠りにつく。

6時間後に目覚ましで起きると、そういえばメッセージが来ていたと携帯端末を開くが受信箱にないので削除ボックスをみる。するとノリーからのメッセージがある。

ああ、へんな治療の話ねと思い出すが、ふとそこにあったリンクを開いてみる。

そこには、ちょっとハンサムな医者が、治療法について熱く語る動画があった。バルセロナのリュイス医師の動画だった。この感情の喚起で人生が豊かなものになるとか言っている。

その時、朋美の心の奥に住むワル美、Evil Beauty がつぶやいてくる。

こういう熱く語るやつに限って、裏があるのよ。ワルよ。惚れ薬でもつくって女をいいように操りたいとでも思ってるのよ。これ、やってみなよ。治療が効いたふりして欺いて、最後はこいつに、大っ恥かかせてやればいい」 


No.3 リュイスの事情(2)

 

パコーン。

テニスよりちょっと軽めの音が響き、四方がガラスの壁で囲われたコートの中で、パデルのラリーが続いていた。

このパデルという競技、前世紀の終わり頃にスペインで広まった後、21世紀に入ってから急速にラテン諸国でブームとなり、2036年のムンバイ・オリンピックで正式競技になって以降、2050年代の今では世界の競技人口がテニスを越えるにまでなっていた。

テニスと違って、老若男女、初心者上級者、ことなるレベルの人でも壁の反発をうまく利用してボールがアウトになること無くラリーが続くというのも人気の理由のひとつであった。

バルセロナの海岸沿いのポブレノウのマンションのパデル施設で一汗かいた後、リュイスとその日本人のパデル友達のナスは近所のバールでハモンをつまみながら冷えたカーニャ(生ビール)を飲んでいた。

「リュイス、どう、その後、おまえの惚れ薬の臨床試験は?」
ナスこと、那須泰彦、47歳、バルセロナ在住32年の日本人が聞く。

「その惚れ薬はやめてよな。恋愛感情を活性化させるホルモン調整であって、飲ませたら惚れちゃうというようなもんじゃないからね(笑)」

「わかってる、わかってる。しかし、恋愛したことない、でもその感情を知りたいという人って存在するんだなあ」

「そうだね、臨床の治験者候補は、あんまり人にいっちゃいけないんだけど、半分が芸術家というか、古今東西の恋愛が動機の過去の芸術作品に感動したものの自分でそこまでを経験したことがないという人だね。ほんとに、恋して舞い上がって飯もろくに喉を通らなくなって、それでラブレター書いたり詩人になったり、なんていうのを一度は経験してみたいっていうような人たち。

残りはいろいろだね。でもみんななんらかの自分のアセクシュアリティに悩んで、セラピストから聞いて関心をもったらしい。まあ僕らとしては、メッセンジャーRNAによるホルモン活性化が脳を恋愛感情を起こしやすい状態にすることはわかっているので、その投与がへんな副作用を起こさないかの確認が目的であって、活性化してそれぞれがどんな恋をするかなんて学術的関心はまったくないんだけどね」

「おれも手をあげたかったんだが」

「ナス、おまえには不要。小柄なルビア(金髪女性)が大好きという理由だけで海を越えて日本から来て、めでたくカタルーニャ人の奥さんを射止めているだろ」

「うん、まあね。ばつ1で二人目だけど、たしかにむらむらというと語弊あるがめらめらと沸き起こってくる恋愛感情には事足りないことはないよな。俺には恋愛バイアグラはいらないということか。そういうおまえはどうなんだい?まあ、おまえが惚れ症で、かーっと熱くなるのはよく知ってるが」

「そうだね。お前にも責任の一端があるが、婚期が遅れているのは、強烈な恋愛がうまくいかなかったという簡単な理由なんだけどね」

「すまん、それは謝る。これからもずっと謝る。おまえがパリに行くっていうもんだから、古い知り合いのパリ在住の真理を紹介したのは俺だからね」

「それはもういいんだ。もう10年以上もたっている。彼女が突然いなくなってから、俺もカタルーニャの独立っていう必死になるものがでてきて、それで失恋の気持ちも落ち着いたしね。。。でもね、ここだけの話、人にいえない、お前だけに言うけど、俺ね、あのストーカーのように熱くなった自分の恋愛感情が怖くて、メッセンジャーRNAでドーパミンのホルモン分泌を抑える治療を3年前からやってるんだ。認可とろうとしている治療の真逆。こっそり自分でやってみてる。それでね、以前ほど、男女関係で熱くなりすぎることが無くなった気がするんだよ」

「へえ、そうだったんだ。あの時大変だったからね。まじで、お前、自殺するんじゃないかとまで思ったよ。失踪した真理と話したらどうにかなるんじゃないかと彼女を探したが、このデジタル化の世の中でありえないんだが、ほんとに跡形もなく消えてしまったんだよね、突然。まあ、どこか山奥の修道院かなんかで偽名で尼さんになってたりするんだろうなあと修道院もあたってみたが手掛かりなし」

「もういいんだよ。不思議なことにね、すべてが遠い思い出というか、昔みた映画のシーンみたいでね。パリでの出会い、いっしょにすごした日々、あれはあれでとても美しい思い出だったと思ってる。いまはそれなりに食事して会話を楽しめる相手はいるし、セックスライフもそれなりに充実している。この人とずっとぜひと思う、結婚相手候補はいないんだけどね」

「お前もあのまま政治の世界に入っていたら、今頃、大臣か副首相かだもんな。そうしないで、惚れ薬研究者のままいて、俺なんかとパデルいっしょにやってくれてありがとう」ナスは、そういってぬるくなったカーニャのグラスをあげた。



2049年にスペインから独立したカタルーニャ共和国では、30年以上前の独立運動でのジュンツ・パル・シ(カタルーニャ独立に一緒にYes)から誕生したカタルーニャ連合党から、党首であるジョセップ・プチドモンが首相に選出された。2052年のカタルーニャ総選挙を経て、2053年には第二次プチドモン政権となっていた。

独立の熱狂がだんだん収まるかと思われていたが、独立から4年目の2053年時点ではまだまだ独自のカタルーニャ文化の再興の諸策が大胆に展開されていた。何世紀もスペインへの同質化圧力で失われつつあったカタルーニャ語のリバイバル、音楽、演劇、スポーツ競技、手工芸品、ありとあらゆる伝統芸能が掘り起こされ、復元されていった。そもそも、カタルーニャがスペインの中核をなすカスティージャとは異なる出自の独自の文化を持っているという命題のもと、数千年前まで遡っての過去の歴史や建国の神話までありとあらゆる文化的再考が行われていた。

あれだけ独立への熱い思いをもっていたリュイスだったが、意外に、独立後はそうしたカタルーニャ独自の文化のリバイバルにはちょっと醒めた気持ちを感じていた。

「あ、そうか、恋愛感情をおさえるホルモン分泌抑制の治療が、おれのそうした熱もさましてきてるのかな」そんなことまで思ったが、SNSで何億回も再生された自分の国家独立へ熱弁が恥ずかしくなるくらい、数年前の自分に違和感を感じつつあった。

そんな時、リュイスは、友人ナスに勧められて読んだ、20世紀の日本の作家のバスク紀行の本のカタルーニャ語訳の本にこんな一節をみつけて、なるほどなと思ってKINDLEハイライトをつけた。

. . . 民族には民族的自尊心と独立心が異常に昂揚する時期がある。そういう時期には、その人が他のことについてどれほど知的であっても、こと自民族の古代的成立に関する核の部分になると、神話的気分を、親鳥が羽交のなかで卵のもろい殻を温めつづけるような可憐さときわどさをもって大切にし、ふと絶対化してしまうらしい。

司馬遼太郎「街道をゆく22 南蛮のみち I 」



2054年11月のドノスティアでの学会まであと1年を切った今、リュイスとそのチームは臨床実験の途中経過報告のデータのとりまとめで多忙な日々を送っていた。

臨床試験のこれまでの結果では、懸念すべき異常値はでてきていなかったが、いくつかの症例で、過去に多重人格的な傾向を精神科医に指摘されていた治験者に、ドーパミン分泌増加で恋愛感情が向上される過程で、その抑圧された人格についても活性化が起こっている可能性があるという報告があった。

EUと関連の欧州各国が今回の臨床試験実施国であった。リュイスは、データ分析の合間のコーヒーブレイク時に、総勢400人の治験参加者データを何気なしにブラウズしていたら、ふと、元ウェールズ、今のカムリ共和国での治験者に日本国籍の女性がいるのをみつける。

33歳、スウォンジー中央病院勤務看護師、独身、トモミ・イイノ。

イイノはかつてリュイスが好意を抱いた女性、マリ・イイノと同姓だった。

日本ではよくある名前なんだろう。リュイスは思った。


No.4 朋美の事情(2)


カムリ(ウェールズ)共和国の首都スウォンジーに住む日本人朋美が、アセクシュアリティ治療の治験プログラム、通称「アフロディシアクム(惚れ薬)プロジェクト」に2053年の10月にエンロールして既に3か月が経とうとしていた。

治験といっても大げさなものではなく、月に1回のメッセンジャーRNAの筋肉注射、週に1回の進捗サーベイへの回答、そしてガーディアン(治験保護人)として登録された人物の要求に応じて面談をすることくらいで、日々、通常の日常生活を続けていた。

治験対象に選ばれたのは、朋美がヘルスケア・ワーカーの看護師であることや監視役のガーディアンも同僚の看護師であることが有利に働いたと思われたが、朋美は自分が申請に書いた治験希望のエッセイがよかったのではと思っていた。

朋美は志望の動機に、看護師としてのこんな経験を書いた。

看護師として、病院に運び込まれてそして入院するティーンの自殺未遂のケースを毎年見てきた。自殺の動機はいろいろあったが、「失恋」という動機があることが自分には理解ができなかった。フラれたら他の人を探せばいいじゃない、そんなことで自分の命を絶とうとするなんて考えられない。そう思っていた。

男女の関係はあくまで社会的なもので、「恋愛感情」というのはそうした社会的な関係の上のケーキのアイシングみたいな飾り付けにすぎないと思っていた。男性の性欲や女性の母性みたいに人間の再生産の仕組みを推し進める原動力みたいに本能的な強いものではなくて、文明が発達していろんな社会的な儀礼が決まっていく中で、「恋愛」は男女を組み合わせる駆け引きの仕組みくらいに思っていた。

3年前のある日、キャリルという16歳の女の子が自殺から一命をとりとめて入院してきた。

一命はとりとめたが、もしかしたら魂のほうは手遅れでどこかへ去ってしまったかのように、当初は無表情、一言も言葉を話さなかった。でも、一週間、三週間、3か月と経つうちに、少しづつ朋美とも会話を交わせるようになっていった。

キャリルが聞く。「トモミー、あなた人を好きになったことある?」

「はいはい、私もう若くないから、何度もありますよ」と朋美は答えた。

「頭の中が彼のことばかりになって、寝ても起きても、彼のことを思っている。彼の前では自分が無力な存在になって、彼にちょっとでも否定されると、どん底に突き落とされた気持ちになる。絶望の底。死んだほうがいいくらい辛い。なんでこんな仕組みを神様は作られたんでしょうなんて思ったこと無い?」

「そうね、若い頃はあったかもね。でも、10代が終わって20代になってそして30代。経験を積むうちに免疫がついてくるものよ。あなたもこれで前より強くなれたと思うわよ」

そんな会話をした。

嘘をついてしまったと思った。

自分にはそんな強い恋愛感情を経験したことがない。

元々、文学や映画などの創作を読むことが好きだったので、いろいろ恋愛ものをみてみた。恋愛ってとても素晴らしく人生を昂揚させるものみたいだけれど、人を迷わせとんでもない悲劇を引き起こしたり、人を死に至らせる怖い病気のようでもある。

そんな感情を、一時的であれ、きちんと管理されたもとで体感してみることは、自分のヘルスケア・ワーカーとしての使命の実行にも有意義だと思う、そんなエッセイを書いた。

さらに、プログラムの条件となっているセラピスト的なモニタリングのガーディアン役についても、同僚の看護師が同意していることも付け加えていた。

     *     *     *

「トモミー、この人どうかしら」同僚の看護師でもある友人のカタルーニャ人のノエリアが画面をシェアしながらきく。

20世紀の米国で発祥のサービス、ティンダーのウェールズ共和国のメンバーがスピンオフして創業した、ウェールズ語の出会いサイト「CWTCH (クッチ)」の検索結果だった。

この子音ばかりでウェールズ人以外は発音に苦しむ CWTCHだが、ウェールズ語で、「ハグする」という出会いサイトの名前としてごくわかりやすい意味だけでなく、「隠れ家を提供する」という深い意味があるという。性欲ぎらぎらの出会いだけでなく、心安らぐ二人だけの隠れ家をというような意味らしい。

更に、ラテンのステレオタイプを自ら表現しているようなノエリアは、毎週のように古今東西のありとあらゆるロマンチックな小説や詩のセリフをチャットでおくりつけてくる。

治療による朋美の脳のドーパミン分泌の増加がごく自然に彼女の恋愛感情を呼び起こすことを、半分、興味津々で煽りに煽っているのと、やはりヘルスケア・ワーカーとして身についた冷静な患者へのケアの気持を持って細かく丁寧にモニターしていた。担当医師がカタルーニャ人でもあることから、定型のモニタリングレビューの他にも、個人的にメールでカタルーニャ語で詳細な観察日記も医師に送っていた。

そんな恋愛への煽りのひとつ。

「トモミー、30年くらい前に書かれた日本の無名作家の小説なんだけどね、メキシコでアセクシュアルな彼女に片思いする優しいストーカーの話でね、その一目ぼれするところの描写がけっこうよくて私なんかには胸キュンとくるのよ。私は自動翻訳のをカタルーニャ語版を読んだんだけど、オリジナルはあなたの母国語の日本語だから、それをここにコピペしておくわね」

すると、その瞬間、その女性の周りの映像がぼやけてみえる。
急に視野が縮んで、周りが霞んでいく。
目を擦る。

ぼやっと霧のように外郭がぼけた視野の真ん中に、はにかみながら踊ろうとしているその女性の姿が、はっきりと見えている。

すると、今度は画像がスローモーションに画像処理されていく。映画のワンシーンみたいに。

網膜にくっきりと刻み込まれる映像。

でも、なぜか、だんだんと腑に落ちてくる。
これは「道を歩いててひと目見て惚れた」やつに違いない。
そんな妙な悟りがシンイチの頭の中を駆け巡って、染み渡っていく。思い込みが加速して行って、一足飛びに結論にたどり着く。

探し求めていた。
やっと会えた。

自分は今、この姿を自分の両眼の中に納めるために、今生を与えられこれまで生きてきたと、そう思う。

大袈裟な結論。

でもなぜか、しっかりとそれが腑に落ちていく。

2020年代世界無名作家アンソロジー 滝居健 著 『私の味 (1) 道を歩いていて』より抜粋





ひとつ、問題というか、奇妙なことが起こりつつあった。

それは、朋美本人も、データを監視している医師リュイスにも薄々と違和感として感じられていた。

朋美には、自分の中に抑制された感情を代弁するもう一つの人格、彼女が悪美、Evil Beautyと呼ぶ人格が密かに存在していたのだが、それが以前より強い主張をするようになったというか、前よりも頻繁に朋美の日々に口を挟むようになってきた。

と言っても、別にそれで朋美が外にその人格が吐き出す毒をばらまくわけではなく、あくまでも朋美の頭のなかをかきまわしていくだけであったが。以前は、それがストレス発散のすかっとする瞬間であったのが、最近、その毒というか強い批判がちょっと気になるようになってきていた。それが治療の副作用なのかはわからなかったし、人に内緒にしているその人格については黙っておこうと思っていた。

医師リュイスも、いくつかのレポートで、隠された人格が活発化するかもしれないという予兆のようなものを感じ始めていた。ドーパミンの活性化が抑圧された人格も活性化するのか。EU内で実施されている治験のいくつかでは、治験者がこれまでなかったようにアグレッシブに意見を外に発するようになったケースも報告されていた。

著名な未来学者のペドロ・マルチネスは、「2040年代の理想に浮かれた熱狂の後には、醒めた頭に二日酔いの頭痛が襲ってくるに違いない」と、新たな独立国家の将来に警告を鳴らしていたことで有名だが、2050年代にはいって、彼の関心はあることに向かっていた。

それは、国家の在り方と民族固有の言語の役割についてだった。

マルチネスはその年、気候が温暖な西アジアの南コーカサス地方のEU加盟国ジョージアで執筆生活を送っていた。執筆の合間に、初めて訪れたこのジョージアという国の歴史について改めて情報を拾い集めてみて、強く印象に残ったことがあった。

人もまばらなトビリシの歴史博物館の、古代から中世の部分をみて思う。

「紀元前から独自性のある文化を守り続けている。2000年以上もの間、ローマ帝国やら、ビザンチン帝国やらムスリムやらペルシャやらオスマントルコやらロシアやらの侵略にさらされても基本的に同化されないで国家として在り続けている」

「国民の大多数が、少なくともここ首都トビリシに住む人たちは、あたりまえのように自分がジョージア人だと思っている。古代から続く独特な文法のジョージア語をしゃべり、独自の33つの文字を読み書き、独自の埋めた壺で発酵させる方法でワインを作ったりして生活している」

「やはり、独自性の保持は、侵略があっても、一方で柔軟に新しいものを取り入れながらも、頑なに自らの独自のもの、おそらくそれは自らの言語というものを必死に守ったからじゃないだろうか?」

「たしか日本という国も、占領は2つ前の世界大戦の第二次大戦の後の米国による10年くらいだけだが、いろいろな外部の巨大な文明からの影響にさらされたが、柔軟に新しいものを取り込みながら独自の言語と文化を保ってきた例だ。案外、空気のように自然に国民に定着している「母国語」というのが文化を軸として独立する国家の在り方のベースとなる軸なのではないだろうか」

そう自問していた。

「ちょっと頭を整理して、来月のロヴァニエミ会議で話してみるかな」

ロヴァニエミ会議とは、20世紀にスイスのダボスで有識者や各界リーダーが集まっていろいろな議論をしていたのがあまりにも拡大してしまったため2035年頃から密かにオーロラの見えるフィンランドの街で開催されている会議であり、そこでは世界の在り方が議論され、とくに参加者の大多数をなすEU加盟国の在り方について議論されるだけでなく、時に、秘密裏に、将来の道筋についてリーダー間での対外非の合意がなされる場所であった。

マルチネスが参加した前回の会議では、欧州で2050年前後にいって矢継ぎ早に独立していった、カタルーニャ、バスク、ウェールズの三国について独立後の歩みがレビューされていた。

「やはり、歴史的にルーツであり過去のある時期に母語だったとは言えその後の歴史で伝統芸能のような位置づけになったウェールズ語やバスク語のような言語と、それなりに生活で使われ続けてきた言語では、再母国語化運動の浸透に大きな差があるな」とマルチネスは思う。

各国は再母国語化の政策を推し進めているが、「伝統芸能保存」の域をでていないとマルチネスは思う。唯一、スペイン語とフランス語の系統であるカタルーニャ語だけが、再母国語化に現実的なのではないかとも思っていた。

ロヴァニエミ会議を構成する各国の政治リーダーの重鎮たちの中で、特にEUの保守派の政治家は、母国語リバイバルがうまくいっていないところは独立自体がどうせとん挫するから、EU加盟の大国への再統合化は避けられないと意見していた。EUという、PCでいえばOSの仕組みを完成させた後は、つまり軍備、金融、財政などの基本操作を共通化した後は、個性のある国民国家で「国」を名乗ってオリンピック参加したりするのは国民の自尊心昂揚のためにそのOSの中で動くアプリみたいに自然な仕組みだと思っていたが、どこかでその国家の在り方の最低必要条件に線を引かないといけないとも考えていた。

2054年3月のある日。朋美とノエリアのところにEメールが届く。

11月にエウスカディ(バスク)共和国首都ドノスティアで開催される脳内治療学会へ、治験者代表とそのガーディアン代表として招待するという内容だった。

さっそく朋美は病院内でノエリアを探す。小児棟に彼女を見つける。

ノエリアは大げさに両手を挙げて笑顔で言う。

「行きましょうよ。バスクってねピンチョスが美味しいのよ。とくにドノスティアのは最高。このリュイスっていう発明者の医者、私と同じカタルーニャのちょっとした有名人なのよ、同郷のよしみで私が仲良くなってそれで朋美に紹介しちゃおうかしら」


No.5 リュイスの事情(3)


カタルーニャ共和国首相官邸のインドア・パデル・コートで3ゲームほど汗を流した後、リュイスは旧知のジョセップ・プチドモン首相と官邸内のサウナにはいった。

パデルは2036年のムンバイ・オリンピックで正式競技となったテニスとスカッシュを足して2で割ったような球技で、2050年にはスペインをはじめラテン系諸国では競技人口数でサッカーを越えるまでになっていた。

「お前は高血圧気味だから、医師としてのアドバイスとしてはね、サウナはほどほどにだな。お前のおじいさんのプチドモン自治州首相も脳梗塞だったからなあ」とリュイスは言う。

「初の独立運動ジュントス選出の首相、30年以上前の2017年にたった8秒だけ独立した(注)共和国の初代首相。じいちゃんに今の独立国カタルーニャをみせたかったなあ」と、リュイスと同年代にみえるアラフォーのジョセップが答える。

「しかし、この官邸は豪華だね。あんまり共和国国民の税金を無駄遣いするなよ」

「ここは自治州の頃からの官邸だよ。豪華といってもガラス張りのパデル・コートとジムがあるだけだけどな。今日は呼びつけてすまない。ここじゃないとゆっくり人とも会えないんだ。最近、セキュリティの問題とかもあってね」

「いや、今や共和国首相になって多忙な、かつての同士とさしで会えるだけで光栄です。最近活躍のようだけど、パデルの腕はかなり落ちたな」

「お前も保健大臣のオファーを受けてたら嫌でも毎日会えたのにな。その後、大臣の座も断って生きがいにしてる惚れ薬の開発はどうなんだい?」

「惚れ薬じゃないんだけどね。でも、最近、ギリシャ語語源の惚れ薬を指す造語のアフロディアクシムから取った『アフロディア』を薬としての登録名称にした。まあ、順調だね、臨床のデータが集まってるが、深刻な副作用も無さそうだ。正確に言うと、人を惚れさせるものじゃなくて、脳のある部分で恋愛感情を促進するドーパミンの分泌を高めるというものだけどな」

「それって、水道にこっそり混ぜて、国民の愛国的な政府支持率を高めるとかに使えないのかね?」

「おいおい、ナチスのゲッペルスじゃないんだから、それ、冗談でも政治的生命おしまいみたいな発言だぞ」

「絶対ここでお前にしか言えないジョークだよ。最近はSNSでの拡散があっという間だからな。この官邸内は完全に盗聴フリーだし、気を許せるのはもはや政治には関心がないお前くらいだよ。政治家は平気で仲間を裏切る人種だからな」

「アフロディアは月1回の筋肉注射なんで、水道にこっそりは無理だね。それに、特定の人を惚れてしまうような惚れ薬なんてありえるはずなくて、恋愛感情が高まると活性化する脳の部分でのドーパミンの分泌を調整するだけなんだ。

なので、表向きの効用は本人が希望する場合に限ってそのドーパミン分泌が極端に低レベルな状態を思春期の若者が初恋で感じるような通常のレベルまで増加させてあげるというものなんだ。

人口の1%くらいがアセクシュアルな傾向があるともいわれていて、その中に少数だが自発的に恋愛感情を感じてみたいっていう人たちがいるんだよね。アーティストとかも含めてね。そういう人たちが今、治験者になってくれている。

実は隠れた目的としてはね、その分泌が過剰なケースで、その分泌を抑制すること。つまり、恋で盲目になって極端なストーカー行為や犯罪に走ってしまう恐れのあるケースの予防的抑制というのがあるんだ。こちらは、使いかたによっては人の感情を抑圧する可能性があるから、倫理的にいろいろ問題含みで、敢えてこの目的をまだ公表していないんだ」

「そういえば、お前も独立運動に身を投じる前は、ずっと5年くらいひとりの女性を片思い続けてたよな」

「20代、もう10年以上昔の話だね。もう遠い思い出だ。でも、ここだけの話、オレ、去年からアフロディアと真逆のドーパミン分泌抑制の薬を実験的に自分に打っているんだ。それで、最近、惚れこみやすい性格、のめりこみやすいところがちょっと抑えられてる気がしている」

「ん、それで政治熱も冷めたんじゃないだろうな(笑)。熱血の独立派の医学生リュイスはSNSでバズってたのにな」

「情熱と狂信は紙一重だからね。前に話したけど、100年くらい前に日本の作家がバスクについて書いたエッセイに、民族的独立心が異常に昂揚する時期というのはどの国にもあって、そんな時はどんなに知的な人でも自国の成り立ちを神話的に絶対化してしまう傾向があるって書いてた。日本の第二次大戦の頃とか、まさに、我々カタルーニャ人のここ5年くらいがそうだと思うんだ。情熱は大切だけど、狂信は危ういよ」

「そうだな。お前のストーカー的な片思いも、友人として見ていて危ういと思ってたよ、パリのマリーだったっけ?」

「マリ、日本語で真実の意味で、聖母マリア様とは語源が違う。。。今なら、今のオレなら、彼女に会ったとしても、落ち着いた心でいれると思う。冷静に会話ができると思う。時が癒すということがあるが、まだ解明していないんだが、オレの薬がドーパミンの分泌を抑えることで、抗えないような強い恋愛感情が抑えられるのか、あるいはその時間による癒しプロセスを早めるような作用があるんじゃないかと思ってるんだ」

「なるほどね。案外、お前の薬が、ティーンの自殺とか犯罪を減らして、この生きづらい世の中を優しくするノーベル賞ものの発明かもしれないね。

ところで話は変わるけど、あの口先ばかりの未来学者ペドロ・マルチネス、熱狂の後には二日酔いだとか言ってたやつだが、やつが最近、反独立の右派のEU 統一派に接近しているらしいんだ。

現代のダボス会議、フィンランドのロヴァニエミ会議に集まる連中を中心に、2040年代の一連の国家独立をレビューしてもう一度国民投票にかけるべきだとか言い始めたらしいんだ。

やはり母国言語が復興しないような独立国は脆弱で文化的独立を語るべきじゃないなんておかしなことを言ってるらしいんだ。まあ、我がカタルーニャはカタルーニャ語がおかげさまで独立前は人口の半数くらいが母国語と認識していたのが最近の調査ではそれが8割まで上がってきている。逆にそれが気に障るらしくて、うまく独立後のプロセスを深化させているカタルーニャの熱を冷ましたいなんて思っていて、頭がおかしい右派のテロのやつらが俺を命を狙っているなんていう情報もある。フランコじゃあるまいし、スペイン再統一なんて時代錯誤なんだがな」

「たしかにカタルーニャはいいが、バスク語とか難しいそうだからな。ウェールズも言語リバイバルには同じ問題をかかえてると聞く。インド・ヨーロピアン言語から離れれば離れるほど学習が難しいんだよね。

ジョセップ閣下、頭がおかしい狂信的なやつはいつの世にもいるから、くれぐれも気をつけてくれよ。いまのカタルーニャ共和国にお前は必要だ。

おじいちゃんから3代、独立に命をささげてきた一家。でも、死なないでほしい」

「そうだね。まだまだやらないといけないことが沢山ある、ふんばり所だ。景気も今年後半から減速だというし、我が与党も国民支持率が若干だが低下してきているし、我らがバルサも今シーズンは調子がいまいちだしな。

ちょっと先だけど、来年に独立6年目の記念の晩餐会があるからぜひ来てくれよ。

惚れ薬開発の成功も祈ってる」

注: SFでなく、実際の史実としては、2017年10月27日に、カタルーニャ州知事プッチダモン率いるカタルーニャ州議会が、カタルーニャ独立を宣言したが、スペイン中央政府は8秒後に独立を凍結している。


No.6 朋美の事情(3)


朋美の新薬アフロディアによる「アセクシュアリティ治療」の治験の開始から半年が過ぎようとしていた。

治験を見守るガーディアン(治験保護人)である朋美の看護師の同僚のノエリアは親友の朋美に起こりつつある変化に興味津々で、おせっかいにも、ウェールズの出会いサイト「CWTCH (クッチ)」を検索しては「この人どう?」と毎週のように朋美にリンクを送ってきていた。

短いウェールズの夏が終わる頃のある夕刻、空が夕焼け色になり始めていた中で、朋美とノエリアはスウォンジーの病院の近くのワイナリーに併設されたカフェで赤ワインのグラスを傾けていた。そう、地球温暖化が進んだ2040年代に、フランスのワイン作り達が亜熱帯化したボルドーからこぞって質の良いブドウが育つようになったブリテン島の田園地方に移動してきていて、スウォンジーにもいくつかそんなワイナリーができていたのである。

「このワイン、ちょっと若いわね。でもブリテン島ワインにしては悪くない」スペインとフランスのワインで育ったアンドラ人のノエリアが言う。

「朋美、恋愛感情について精神棟のドクターがこの間、おもしろいこと教えてくれたわよ」おしゃべりのノエリアは続ける。

「恋に落ちることは、人間の脳に麻薬のコカインやヘロインと同じレベルの刺激や陶酔感を与えるっていう研究結果があるんだって。

人が恋に落ちるとね、「ドーパミン」「オキシトシン」「アドレナリン」とかのホルモンの分泌量が増大して、脳のなんと12か所もの領域が並行して活発化するそうなの。

あなたが筋肉注射してる薬も、そういうホルモンの分泌の活性化を誘発するものなのよ。まだなにも変わったことはないの?」

「そうね。なんだか、ちょっと涙もろくなったかな。恋愛映画とかみてて悲しいシーンで共感しちゃうっていうのは前と比べてあるかなあ」
朋美もワインを一口飲んでつぶやく。

「この間のクッチのウェールズ人の彼、どうだったの?」

「ああ、ガリットね。うーん、ちょっとカッコよくて面白い人だったけど、あなたが言っているようなキュンというのは感じなかったわね。

私は日本人だと言ったら、急に目を輝かせて、ウェールズ人と日本人は同じく海苔を食する民族だっていう話を始めてね、いかにウェールズの海苔の養殖技術が日本の海苔産業を救ったかなんていうことを30分も話してたわよ」

「え?海苔?初対面でその話題はだめよね」

「仕事が海苔の養殖技術の研究者だったの。こんど美味しいラバーブレッドの店いきませんかって誘われたけど、私、海苔アレルギーなんですってウソついちゃった」

「うまいわね、かわすの。

ところでね、私もアセクシュアリティというのがどういうことなのかいろいろ調べてみてみたの。30年前にあなたの故郷の日本で作られた映画で "Freckles”ってあなた観たことある?なかったらお勧めよ。アセクシュアルなのに周りから無理やり恋愛を押し付けられる辛さって、私にとっては目から鱗だった」

「知ってるわよ。いい映画、アセクシュアリティ理解のバイブルみたいな名作。もうちょっと古いけどね。 30年以上前の、いまよりもっと多様化に理解がなかった時代の映画。frecklesはね日本語では「そばかす」っていうんだけど、主人公の名前が Soba Kasu、そばた・かすみなのよ」

「へえ、pun (駄洒落)だったのね。でもあなたの場合、恋愛感情がわからないからこの治験で体験してみたいっていうことは、恋愛関係とか性的な関係に嫌悪感まではないわけよね?」

「そうね。映画にあるみたいに、押し付けられての嫌悪感はないんだけど、恋愛感情を持ったことが無いし、これまで関心もなかったっていう感じ。それで興味はある。アセクシュアリティにもグラデーションがあって、私の場合、正直、そんな感じなの」

「セックスについても嫌とかはないの?」

「そうね。正直に言うと、わざわざ自分以外の人間とあれをしなくてもいいかなっていうところ。もちろん経験あるけれど、変な感覚、決して気持ちのいいものではないって感じ。体は反応するんだけど、なんか自分が急性の発作に襲われた感じ。呼吸が粗くなって、脈拍が高まって、体温が1度くらいあがる、応急処置しなくちゃ、なんて。。。こんな見方、看護師の職業病かしらね」

二人は笑う。そして、ワインを飲み干す。さっきまで夕焼けで真っ赤だった空がもう真っ暗になっていた。つるべ落としのような日没は、既にウェールズに秋が到来しつつあったことを示していた。

 


1か月後。同じワイナリー・カフェ。

「ノリー、あのクッチ・パーティにいたカルロス覚えてる?」

「あ、あの東洋系の人ね。日本人か中国人かと思ったら、英語で私がアンドラ人だといったら急にスペイン語喋り始めたニッケイ・ブラジル人の」

「そうあのカルロス・ヤマダ。パイロットの」

「けっこうハンサムよね」

「ノリー、私、もしかすると、治療の効果なのか、「来た」、かもしれない、あなたがいっていたあの胸きゅんが」

「えぇ!カルロスに?」

「これ、彼がこの間のデートの後に送ってくれたテクストメッセージ。あ、日本語だから翻訳かけるわね。見て。

『日本の文豪の夏目漱石は、I love youを日本語で「月が綺麗ですね」と訳すと書いてますね。そんな日本文化の奥ゆかしさが好きです。自分にもあなたと同じその血が流れていると思うと嬉しく思います』」

「うーん、なぜ日本人だと I love you が The moon is beautiful になるのかわかんないけど、ロマンチックで、がっついてなくていいわね」

「夏目漱石ってね、19世紀の小説家でロンドンに留学してた人なんだけど私じつは彼の小説を1つも読んだことなかったんだけど、検索したらたしかにカルロスが書いてたようなこと書いてるのよ。こんなメッセージもくれたの。

『あなたが恋愛についてこれまであまり経験もなくてよくわからないとおっしゃってましたが、あのシェイクスピアはこんなことも書いてますよ、「恋ってのは、それはもう、ため息と涙でできたもの」。わくわくする高揚感だけではなくて、揺さぶられるような辛い気持ちもある。でもすばらしく美しいものだと思います』」

「うーん、ちょっとこれはダサいわね。でも、案外いいかもしれないわね。ラテンの情熱と奥ゆかしい日本人の感覚をもった彼氏。それで何回デートしたの?進展はあったの?」

「まだ2回だけ。キスだけ。彼はパイロットだから、あまりスウォンジーにいれないのよ。カムリ(ウェールズ)と中南米の主要都市の間を行ったり来たりしてる。この間のデートはブエノスアイレス便の前だったから、パイロットの制服だったんだけど、かっこよかったわよ。きゅんとしちゃった。でもね、勤務前48時間はお酒飲めないってスタバでコーヒーだけだったんだけど」

「え、スタバでのデート。でも2回しかあってない女性と逢うのにパイロット制服着てくるなんてちょっと変よね」

「忙しいからしょうがないのよ。それでも会ってくれてうれしかった。ブエノスからこんなメッセージもくれたの。なぜか英語だったの。

"The first time ever I saw your face
I thought the sun rose in your eyes
And the moon and the stars were the gifts you gave"

the moon and the stars were the gifts you gave なんて、夏目漱石の「月がきれいだ」にもかけてあって、素敵でしょ」

「。。。あれ?どこかで聞いたことがあるようなセリフ。

The first time ever I saw your face … ♪ 

なんか、20世紀にはやったヒット曲だったんじゃないかしら。。。Diana Ross? Roberta Flack? そう Roberta Flackよ。。。ほら、この Spitify の聞いてみて。なーんだ、まったく歌詞そのものじゃない(注)。

大丈夫?このカルロス」

「たぶん彼も歌詞の引用として書いたのよ。彼が好きなオールディーズの歌詞として。20世紀のブラック音楽好きだって言ってた。自分で書いた詩だとは彼は言っていないわ。これだけさらっと送ってきた。地球の裏側のアルゼンチンから。ね、ロマンチックな人でしょ?」

「うーん、ちょっと芸術家ぶったラテンならやりそうな手口だけど。愛の歌の引用とかね。ずるいけど。

でも、あなたが幸せな気分になっているということが大事よ。

朋美、私、親友として嬉しい。この恋、うまくいってほしいわ」



また数週間後。同じカフェ。

「カルロスね、夢があるのよ。パイロットで稼いでためたお金で暗号通貨を使った人のマッチングのサイトを立ち上げたいっていっているの」

「え、暗号通貨で?クリプトって2030年頃には下火になって、結局は、ブロックチェーン技術を中央銀行とか大手銀行が決済で採用してコストを下げることに貢献したけど、いろんな通貨自体は価値がなくなって2035年頃には交換所の倒産も相次いだあれでしょ?この2050年代にいまさら暗号通貨でマッチングってなんなのよ?」

「ノリー、彼は真剣なのよ。目をみるとわかるわ。夢で目が輝いてるのよ。詳しいことは技術的で説明聞いててもよくわからないけれど、立ち上げに500万ラバ(カムリ共和国の通貨)は必要なんだって」

「それは個人でパイロットの給料の貯金じゃ無理よね。協力者がいないと難しいんじゃない」

「それでね、私のほうから彼に頼んだんだけど、私も貯金していたのと、シンガポールにいる会社やっている私のお父さんにもお願いしてあと100万ラバくらいのお金を出資してあげたいの。彼はそれは受け取れないっていうんだけど、彼の夢のために。。。あなたも少し協力できないかしら?」

「待って、朋美。。。おかしくない?まだ会って2か月しかたってないのに、そんなお金がからむ話になるなんて。私、そのカルロスについて調べてみるから、絶対にそれまでお金は渡しちゃだめよ」

「だいじょうぶ、彼に限ってへんなことはありえないわ」

(ここで作者より: 今回既に5000字近くなってきたのでお話の早送り。ご想像のとおり、初めての恋に浮かれて危うく20世紀に流行ったような古典的なロマンス詐欺にひっかかりそうになった朋美を、親友の治験ガーディアンでもあるノエリアは危機一髪で救う。もちろんカルロス山田は偽名でパイロットというのはウソで、ニッケイブラジル人ですらもなく、語学の天才の中華系マレーシア人で20件にもおよぶ結婚詐欺でICPOに指名手配中のジョージ・ カオ(39歳)であった)

ノエリアに事実を聞かされた朋美は、3日間ショックで寝込んでしまった。

「これが恋煩いというものかしら」朋美は思った。こんなに辛いのなら、こんな治験に参加しなければよかったとも思った。

カルロス、いや詐欺師ジョージの記録を全部消し去りたいと自分の携帯とPCを朋美は検索した。するとちょっと変なことに気が付く。

PCは自分しか使っていないのに、自分が検索した記憶のない単語が検索履歴にでている。

カタルーニャ独立運動、プチドモン首相、リュイス、EU統一派、バスク独立テロ組織、工作員、爆弾テロ、、、

そして自分しか知らないはずで決してPCに自分が打ち込んだりすることさえありえなかった単語もそこにあった。

Evil Beauty、ワル美。

(続く) 

(注)"The First Time Ever I Saw Your Face" a 1957 folk song written by British political singer-songwriter Ewan MacColl. It has become a major international hit for Roberta Flack in 1972. 


No.7 出逢い


2054年11月、それまでのリュイスの治験データのとりまとめも進んで、月末のエウスカディ(バスク)共和国首都のドノスティアでの学会での発表にどうにか間に合いそうだった。

バルセロナからドノスティアまでは藻燃料旅客機で飛ぶか、昔ながらの電気式旅客電車で行くかの選択があったが、リュイスは敢えて電車を選んだ。

早くして病死した両親と自分が幼い頃に電車で行った旅行の思い出があったこともあるが、5年近く会っていなかった母方の叔母がスペインのリオハ州の中心都市のログローニョに住んでいて、それがちょうど中間点にあったので、そこに1泊していけばバスクまでの8時間の電車旅が4時間づつになるからという理由もあった。

あいにく、バルセロナのサンツ駅で正午の電車に乗った時は雨だった。車窓から電車と並行して走るエブロ川が雨で煙って見えたが、目を凝らすと川の向こうの細い舗装していない道を歩く人が数人見えた。フランスから南に下ってきてさらに西のサンチアゴを目指す、星の巡礼の人たちのようだった。

AIの導入が進んでより単純作業から解放されるようになった人々の間で、この20年くらい、自由になった自分の時間を巡礼のようなスピリチャルな活動により振り向けるのが流行りとなっていた。データ処理で徹夜の作業が続いていたリュイスにはちょっと羨ましかった。まだまだ医療の新薬開発現場はAIの導入が遅れてるなとつくづく思った。

両親の死後に世話になった叔母とも5年も会っていなかったが、ログローニョの小さな駅のホームに来てくれていた。当たり前だが5年会っていないと叔母も年を取っていた。もともと小柄だったが、さらにちょっと小さく感じた。

「私の甥っ子リュイシート、今日はピンチョス・バールを梯子するわよ」喋りだすと、叔母は元気いっぱいでまったく年を感じさせなかった。

名物バールが並ぶローレル街のすぐそばにある叔母のアパートに荷物をおろして窓の外をみると、既に雨はあがっており、きれいな虹がみえた。弧を描いたパーフェクトに半円の虹を見たのは最後はいつだっただろう。リュイスはその虹に見とれた。

叔母が宣言したとおり、美味な肉やシーフードのピンチョスを3軒ほど梯子してリオハのワインをしこたま飲んで叔母のアパートに戻ると、既に午前4時をまわっていた。数時間仮眠して朝7時に腕時計の目覚ましで目を覚ますと、窓の外に、燃えるような朝日が見えた。

学会のメインイベントと期待されている自分の研究発表がきっとうまく行く。

それを暗示してくれている、昨日の虹とこの朝焼けなんだ。リュイスはそう自分に言い聞かせた。

(作者より: 去年撮った実写動画ネタがあったので、ちょっと脱線しました(汗)まあ、30年後もこれまで保存されてきたログローニョの美しい中世の街並みは今と変わってないでしょう)

同じ頃、EU各地から学会に招待された治験者とそのガーディアンたちも、エウスカディ(バスク)のドノスティアを目指していた。

飯野朋美とノエリア・プジョルは、ライオン・エアーの直行便でニューポートからドノスティア空港へ旅立った。

3時間弱のフライトで最初は雨雲の中かなり揺られたが、左手にピレネーの山々が見えるようになったころ、窓際席で窓の外をみていた朋美が声をあげる。

「ノリー、見て!虹よ」

「わあ、綺麗。まんまるの虹ね」
隣に座っていたノエリアが身を乗り出して言う。

「でもね、これ厳密には虹というか、ブロッケン現象っていうのよ。去年付き合ってた高校の理科の教師の彼が言ってた」とノエリア。

「初めて見た。とても綺麗。オーロラみたいに神秘的ね」

「オーロラは大げさだけど、綺麗だわよね。あなたの素敵な出会いの予兆かしらね」

ノエリアは微笑む。

朋美は、学会で出会いがあるとは全然思っていなかったが、薬のせいか、ちょっとドノスティアに行くことに既にワクワクしていた気持ちの高ぶりが虹をみてさらに高まったような気がした。でもそのことはノエリアには言わずに違うことを答えた。

ドノスティアって素敵な響き

「もとのサン・セバスチャンよね。バスク語でも同じ意味みたい。でもサン・セバスチャンは明らかにスペイン語だから、独立前から地元の人はドノスティアを好んで使ってたようだけど。いまは晴れてエウスカディの首都のドノスティア」

二人の乗ったライオン・エアーの三菱重工製のM-37は、光り輝くビスケー湾を旋回しながらドノスティア国際空港へと着陸態勢に入っていった。

2054年11月24日から2日間、エウスカディ(バスク)共和国首都のドノスティアで、リュイスのチームが取り組んできた脳内治療について発表する学会が開かれた。

会議は学際的な建付けで、脳神経内科の研究者と医者だけでなく、ジェンダー・セクシュアリティの研究者も招かれていた。さらには、リュイス達の実施してきたメッセンジャーRNAによるドーパミン・コントロールの治験者もEU各地から30人参加していた。その中に、カムリ共和国スウォンジーから参加の朋美とそのガーディアンのノエリアがいた。

初日は、mRNA注射によるドーパミン増加のメカニズムの最新の研究や、既に行われてきた治験でのデータの報告など、専門的な報告が相次いだ。

リュイスのチームの報告は非常にシンプルで、彼らの研究は「アセクシュアルを自認する集団から自ら希望して治験候補となった対象」にmRNAの投与を続けた結果、懸念されるような副作用は特段なかったという内容であった。

mRNAの投与がドーパミンの分泌を増加させるのは明らかであったし、そのドーパミン増加が誘発するであろう「疑似恋愛感情」を感じてみたいと手を挙げた治験者が実際にそれを感じてどうだったというのは、彼のチームというより精神心理学やジェンダー学者の領域であるという立場であった。

リュイスは、結論としてこの薬物投与には副作用の懸念はないとしつつ、個別事例として、一部の治験者で統合失調的な多重人格の既往症がある場合にはその隠れた人格の活動を活発にさせる傾向があったがその程度は限定的だったとつけ加えて、発表を終えた。

すると、手を挙げて質問する女性がいる。

「ジェンダー学のスティーブンスです。そもそもなんですが、アセクシュアリティは病気じゃなくて一つのジェンダー、個人の気質のひとつなんですから、その治療だと位置付けるなんておかしいし、希望者がいるといっても、じゃあ麻薬を服用したい人に麻薬を与えるんですかという議論といっしょで、この研究そして治験実施には倫理的問題があると思うのですがどう反論されますか?」

リュイスは落ち着いた口調で答える。

「もっともなご意見です。

ちょっと個人的な経験を、この治験実施にあたっての自分が考える意義の説明に使わせていただければと思います。

かつて、もう10年以上前ですが、私にはアセクシュアルを自認する知人女性がいて、私はその女性に強いともすれば抑えきれないほどの一方的な恋愛感情を持っていました。

彼女は自分を多分、ひとりの人間として尊敬してくれて、仲のよい友達として会ってくれていました。

でも、彼女は、性的なことや、恋愛感情については、自分はそれが生まれつき感じない人間でそれが理由で生きづらい思いを沢山してきて、もう自分の人生にはそういう他人との関係性は無理だし不要なものとの結論を出すに至ってました。

彼女はある日、行方がわからなくなり、その後、音信は途絶えました。

私は混乱して、落ち込み、自死するなんて馬鹿な考えまで頭をよぎりましたが、ご存じの方がいるように、10年前にカタルーニャ独立運動に身を投じることで、それを吹っ切り、どうにか生きてきました。

祖国愛とか独立へのパッションっていうのも、恋愛感情の高まりに似ているのか、独立を熱く語ることの高揚感で、辛い失恋の痛みを忘れられたんだと思っています。

その頃、デモ揺動で留置所に2か月くらい拘留されたとき、友人が差し入れしてくれた本のなかに何故かアイルランドのジェイムズ・ジョイスの短編集『ダブリン市民』のペーパーバックがあったんです。

なんとなくページをめくっていたら、11話に「痛ましい事件」という短編があって、それを留置所の独房で読んでいたら、不思議なことに、あの出来事はそういうことだったのかと腑に落ちてきたんです。

ちょっと長くなりますが、こんなお話なんです。

主人公はダブリンの銀行の出納係の独身の中年の男性。もう40歳を過ぎて、モーツアルトが好きでニーチェとか哲学者の本を読みながら淡々と繰り返しのような平凡な日々を送っていた。『心の中で三人称の主語と過去形の動詞をもって、自分に関する文章をみずからつくってみるという、奇妙な自伝癖があった』なんてジョイスが書いているんですが、なんでしょうね、自分が美味しいものを食べたら、「彼はそのウナギパイを美味しそうに食べた」とか独り言を言うんでしょうかね。まあ、潔癖症の堅物の変人ですね。

ある時、音楽会で娘連れの40代のご婦人と知り合う。既婚の女性だったが、同じ芸術の話題で話がはずんだ。女性の家に出向いて芸術論議したりするんですが、旦那は主人公は娘のほうに気があるのかと思って特に問題にならず。不倫というわけでなく、主人公は純粋に芸術談義を楽しんでいたんです。

話がはずんでいたある日のこと、彼をじっと見つめていた婦人は感極まってか、『狂熱的に彼の手をとらえそれを彼女の頬に押しつける』ことをする。

主人公は思うんです、そんなつもりはなかった、高尚な芸術の話で意気投合していただけでそんな下劣な下心はなかったと、すぐに絶縁を申し出る。

21世紀の今なら、この主人公は「アセクシュアルな傾向がある人」であり、無理に恋愛や性的なシチュエーションを押し付けるべきでないということになると思うのですが、この婦人は「アセクシュアルな男性」と恋に落ちってしまったわけです。

物語は、悲しい展開となります。主人公が夫人と絶縁してから4年後、主人公は婦人が路面電車に飛び込み自殺したことを新聞で知るんです。ここ数年、婦人がうつ病でアルコール中毒だったということも知る。

主人公は19世紀末の古い頭の固いアセクシュアルな人なので、夫人の行為が『彼女自身を下劣にしたばかりではなく、彼までを下劣にしてしまった』なんてまで思うんです。

でも、このアイルランドの作家、最後に余韻の残る結末を持ってきてました。

主人公は、冬が近い公園をひとり歩いていて『自分が人生の饗宴から追放されているのを感じ』、やっと、『ただ一人の人間が自分を愛していたようにおもわれた』ことがわかってくる。

エンディングは、感じようとしても婦人の存在を感じることができなくなってしまった、まったくの静寂の中で、主人公は『しみじみと自分の孤独を感じた』と、なっていました。

この20世紀初頭の文豪は、アセクシュアルな人たちを茶化すことなく丁寧に描きながら、人から恋愛感情を寄せられてもそれを受け止められない辛さ・悲しさを描いていたと私は思いました。アセクシュアリティも辛いんだ、そんな風にその時自分は思いました。

治験参加者は理由は様々であれ、自分がアセクシュアリティの個性を持ちながらも恋愛感情を疑似的にでも一度体験してみたいという関心や好奇心をお持ちだと私は理解しています。

私の研究者としての使命は、安全で、それがその人の人生にとって意味のある恋愛の疑似体験の手段を提供したい。それをそれぞれがどう受け止めて自らの人生に生かしていくかは個人の問題であり、心理学的カウンセリングの課題であると頭の整理をしています。

長くなってすみません。答えになっていれば幸いです」


周りのみんなと一緒に立ち上がって大きな拍手をしながら、朋美は強く思った。

この人とじっくり二人だけで話してみたい」 


* 


学会はドノスティアのクルサールという20世紀末に建てられた海岸沿いの国際会議場で開かれていた。同じバスク・カントリーのビルボ(ビルバオ)のグッゲンハイムほどでないが、重厚な中世の古い街並みの中でこのシンプルで近代的な建築は目立っていた。

その一角のホールで、バルセロナから来たリュイスのチームとEU各地から招待されてきていた20組ほどの治験者・ガーディアンとのランチョンが開かれていた。

席の指定もなく特にスピーチもないカジュアルなセッティングで、着席した順に食事が配られていって、10程の丸テーブルで手狭なホールでは既にいくつかの立ち話の輪ができていた。もちろん、リュイスを囲む輪が一番混みあっていた。

朋美がノエリアに言う。「ドクター・カザルスと話してみたいわね」

「カザルス?あ、リュイスね。待ってね、このバスクの名物のチーズケーキ食べてから行きましょ。この上が黒いケーキ、basu-chii って言うんでしょ?30年くらい前に日本で大流行した」

「私、シンガポール育ちだから知らないのよ。リュイスって英語だとルイスよね?」

「そう、会うのは初めてだけど、リュイスと私、同じカタラン、私のアンドラもカタルーニャ文化圏だからつながってて実はもう仲いいのよ、チャットを通じてね。あ、いいこと教えてあげる。あのリュイスが質疑応答で言ってた、彼がかつて好きだったっていう女性、アセクシュアルな女性、日本人だったらしいのよ。あなたについて彼とチャットしているとき、同じ苗字の人のとても親しい知り合いが昔いたって言ってたから」

「え?」

「あなたとかぶるところあるでしょ?ちょっと年上だけど独身だし案外いけるかもね。アジア人女性フェチみたいなのかしらね、結構、イベリア半島に多いのよ」

ノエリアはリュイスのとりまきの輪に近づくと、その隙間をみつけてうまくタイミングよく会話に入ってリュイスにさりげなくカタルーニャ語で話しかける。このノエリアのラテン系の目ざとい社交スキル、侮れない。

「オラ?コモエスタス?ジョ・ソック・ノエリア」

朋美にはスペイン語にしか聞こえないその挨拶があるとリュイスは満面の笑みで、「ノエーリア!ペル・フィ!(ついに)」とノエリアにハグしてきて恋人同士のように頬にキスを交わす。

「リュイス、紹介しますね、私がガーディアンとして護りに護ってきている、朋美よ」

「トモーミ!オフ・コース!」リュイスはハグしてくる。

やっぱりラテンのノリよね、ウェールズでは初対面でこれはないわねと朋美は戸惑うが、ぎゅっとハグされると一瞬言葉を忘れ、ちょっと微笑む。

ノエリアがカタルーニャ語で言う。「あなたの薬のせいで惚れやすくなってるから気をつけてね」

「偽パイロットには大変でしたね、あ、守秘義務は心得てますのでご心配なく」とリュイスが英語で後半部分は小声で言うと、朋美は顔を真っ赤にしながら答える。

「。。。ドクター・カザルス、お会いできて光栄です。あなたの動画は全部みました。昨日の質疑応答でのお話も素晴らしかったと思います。。。私、あなたのファンのひとりです」

その時、リュイスは密かに思う。

懐かしい感情。遠い昔に感じた気持ちの高まり。
でも以前ほど、のぼせて我を失うような熱さはない。
もっと落ち着いているけれど、静かな着実な心の高まり。

目の前にいるこの日本人は、自分がかつて強く愛した人とはまったく違う別人。顔かたち目鼻立ち、声のトーンとか仕草とか、全部異なる他人。でも、なにかマリに共通した、佇まいというか、その存在感のようなものが、同じだ、と思う。

そそられるセクシーさとか、抱きしめたくなるような可愛さではないのだが、その佇まいに凛とした美しさを感じるというか。

日本人女性だと持っているDNAに秘められた気質なんだろうかなどと非科学的なことまで思った。そして、気が付くと自分の口が勝手にこんな言葉を発していた。

「ミズ・イイノ、明日、よろしければドノスティア観光しませんか?午後空いてるんです、よろしければ夕食でも」

「はい」朋美は即答していた。

横にいたノエリアも即答「私、明日はティンダー・マッチとのデートがあるからだめ」。

「では2時にホテルに」そう早口で朋美に言うと、リュイスは横から会話に入ろうとしていた別の治験者の男性と笑顔で握手していた。



翌日、午後2時ちょうどに、一台のハイブリッドカーがホテルの前に止まった。

EU政府は2050年には温暖化対策で化石燃料の車両の全廃を目指していたが、2040年代にそれが経済的・現実的に達成不可能だと判ると、EVに加えて電気とガソリンの混合型のハイブリッド車の生産は良しとするとあっさり譲歩した。結局は、EVが依存する電力の発電での再利用可能エネルギーの割合を高めることに限界が露呈したのが2030年代だったのであった。

とりあえず電力駆動の車を普及させてしまって発電ソースは追って対応すればよいとする当初の大胆な政策判断であったが、後日思えば当たり前ではあったが、"well to wheel" つまり駆動の源泉がなにでそれがどう駆動へと供給されているかまでちゃんと考えると、駆動だけをEV化しても発電のほうで温暖化ガス問題の根本的解決にはなっていないことが明らかであった。

また、2030年代の飛躍的な生成型AIの普及も計算処理の増加からさらに電力需給を圧迫して、皮肉なことにやはり究極の「再生可能エネルギー」は人間じゃないかという議論が持ち上がり、人間が処理できる作業をなんでも電算機に頼るのはよくないとのAI神話への反省の時代でもあった。

人間は勤労してエネルギーを消費しても、ご飯を食べて家で寝れば翌朝には再生している、こんな万能な「再生可能エネルギー」はない、そんな自然回帰的な反省であった。

*     

「朋美さん、お待たせしました」車から降りてきたリュイスがサングラスをとりながら日本語で話しかけてくる。

「え?ドクター・カザルス、日本語喋れたんですか?」

「さあ早く乗ってください。今日はいそがしですよ。ドノスティア観光、コンチャ海岸がみえる丘にフニクラで行てから、不思議彫刻ペイネ・デ・ビエント見て、午後7時からピンチョス街のアステレナというおいしいバスク・レストランのテーブル予約あるんです」

「え、スペインって、夕食は遅くて夜10時からって聞いてましたけど」

「それは昔ね。ここは勤勉なエウスカディア(バスク)共和国だし。21世紀にはいってから50年くらいは夕食は普通7時くらいから食べてるんですよ」

車の中で会話が続く。

「ていうか、先生の日本語、とても自然すぎる。日本に留学とかしてたんですか?」

「先生はやめてください。リュイスと呼んでください。朋美さん、でいいでですよね?」

「はい。朋美だけでだいじょうぶです」

「日本語は、若い頃にボウリンゴ・アプリとスポーツ・アニメ映画で覚えて、10年以上前だけど親しい日本人の友達がいたんです」

「すごいなあ。私なんて日本語と英語で精いっぱいでウェールズ語なんてもう10年近く住んでるのにまだ全然です」

「カムリ、ウェールズ語は大変そうだ。バスク語もそうだけど。スペイン語とかカタルーニャ語とかイタリア語は発音が日本語に似ているから勉強しやすいと思いますよ、ぜひカタルーニャ語を」

そんな自己紹介をしていると、車はコンチャ海岸の西側の丘モンテ・イゲルドの下の住宅街に着く。

車を止めて降りて、古めかしい建物へと入っていく。

「よかった。まだ動いてる、この赤いフニクラ。小学生の頃、夏の家族旅行で来て乗って以来ね」

古めかしい前世紀のケーブルカーがまだ動いていた。二人が乗ると、木製の車両をぎしぎしいわせながら、フニクラは森の斜面をゆっくりと登って行った。5分ほど斜面に建った民家すれすれに登っていくと丘の頂上に着く。

するとそこには、素晴らしい景色が待っていた。ドノスティアのビーチと中世の街並み、近隣のピレネー山脈の山々、そして海側には遠くにみえる入り組んだ海岸線の景色が、まさに360度広がっていた。

「どうです?ここから見る海岸きれいでしょう。日本語でもリアス式海岸っていうんでしょ?リアスっていうのはスペイン語なんですよ。この辺とかガリシアに多い地形、谷がそのまま海に水没して作り出した複雑な海岸線」

「リアス、そうです日本語でも。うちの母方の実家が三重県なんですけど、祖父母が住んでた志摩っていう地域の風景がまったく同じなんです。おじいちゃんは『溺れ谷』とか呼んでましたけど」

「溺れ谷? un valle ahogado? 谷が溺れた、か。それ、川を意味するリアスよりおもしろい名前ですね」

二人は、丘の頂上にある古めかしい遊園地のような施設で、ジェットコースターに乗る。がたがた、スピードはゆっくりだったが、今にも壊れそうで、それがスリリングだと朋美は笑った。

「スペイン語でね、ジェットコースターのことは普通モンターニャ・ルサ、ロシアの山って呼ぶんですけど、これ何故か、モンターニャ・スイサ、スイスの山っていう名前になっているんですよ、ほらここに書いてあるように。

小学生の僕は父に聞いたんです、なぜ?って。

父が言いました。50年以上前の1970年代までスペインはフランコっていう軍事独裁者の時代があって、フランコが共産主義が大嫌いだったのでロシアという名前を変えさせたって。フランコは第二次大戦のファシスト政治の延長線で強権政治で中央集権を維持するために国内の分離独立運動を無慈悲にことごとく弾圧したんです。おじいちゃんが暗い時代だったってよく言ってました」

「そうなんですね。でもその後、ソ連も崩壊してロシアも共産主義じゃなくなったし、もうこれもロシアの山でもいいのにね」

「そうですね。名前が定着しちゃってたからか、それとも、そんな変な歴史を忘れないようにわざとその名前を使い続けているのかもしれないですね」

イゲルドの丘を曲がりくねった坂道をゆっくりと下ると、丘の真下の海岸に出る。

「これから面白いものを見せますよ。満潮近いし、今日は風が強いからいいな。じっと見ていてください」

海岸の岩場の突き出したところに、岩と鋼鉄で作られた風変わりなオブジェがあった。ペイネ・デ・ビエント(風の櫛)と書いてある。その横の海に面した石畳のスペースに石畳に5、6個穴があいている。

少しして、「ほら、来たぞ!」リュイスがそういうと、その穴からいっせいに水しぶきが噴き出す。水は大きなシューっという音をあげて、1m以上吹き上げる。海から打ち寄せる波が穴を通じて吹き上げるように設計されたモダンアートであった。

予期せぬ展開に、朋美は思わず飛び跳ねるように後ずさりする。ヒールで転びそうになるが、リュイスがうまい具合にそれを後ろから抱きとめる。二人は笑う。水しぶきで濡れた顔をみて、お互い、また笑う。

*    

ピンチョス街の端の、川に近い路地に、そのレストランはあった。

「うれしいな。1997年創業のこの店が2053年の今まだやっててくれて。
2023年に家族で来た時もこのテーブルで食べたんですよ」。リュイスはバスクの白ワインのチャコリを朋美に注ぎながら言う。

「この白身の魚、なんだかわかりますか?」

「とても美味しい、メルルーサかしら。ソースも不思議な味、これまで食べたことのない味、これがバスク料理なのね」

「スペイン語でラペっていうんです、英語だとモンク・フィッシュだったかな。rape ってスペイン語、英語単語だとレイプだから強姦魔みたいでかわいそな名前だけど、これ、海の底にじっと待っててヒゲふらふらさせて小魚を呼び寄せて、パクっと食べるんですよ。呼び寄せて好きで来たのをパクっ。レイプと違う」と、リュイスは魚の物まねしながら説明する。

朋美は笑って言う。「あれね、あのちょっと間抜けな魚ね。日本語ではアンコウっていいます。肝がね、フォアグラみたいで美味しいの」

バニラアイスの添えられたチーズケーキのデザートを食べているとき、リュイスが朋美の顔をじっと見つめながらちょっと真面目な顔をして言う。

「朋美、真面目な話、個人情報、医療の情報だから言うべきでないけど、僕はあなたがアセクシュアルを自認していて今はアフロディアの接種でドーパミンの分泌量が増大していることを知っている。

僕の仕事はmRNAがそのドーパミン活性化を安全に起こす技術の開発であってそれが君の気持にどう影響しているかは専門外なんだけど、正直に言います。

昨日からほんの短い時間だけど、いっしょに過ごせて、あなたをちょっと知れて、僕のほうは、あなたにとても惹かれています。好きです。とても好きです。

測らなくても、自分の脳がドーパミンを今どっさり出しているのを感じることができる。

でも、どう考えても、これはフェアじゃない。惚れ薬につけこんで口説いてるようでもある。もし、もし僕とこれからもずっと付き合ってくれる気持ちがあるのであれば、アフロディアの接種を止めてもらって、それで付き合いたいと思うんです」

朋美は熱いまなざしでじっとリュイスを見つめ返して言う。

「いまは、あなたしか見えない。あなたに出会えた奇跡が、わたしのこの胸にあふれてる。もう空を飛んでいるような気持ち。会うべき運命の人に会えた。You complete me。あなたが、私の人生のジグゾーパズルで探していた最後のピース、そんな気持ちでいっぱいです」

リュイスはテーブル越しに、朋美の顔を両手で引き寄せると長いキスをした。リュイスのワイシャツにバニラアイスがべっとり付いた。


なにも語らず、レストランを出ると、二人ですぐにホテルのリュイスの部屋へと行く。

朋美はすでにすっかりと濡れていた。

リュイスはやさしく服を脱がせると、今度は荒々しく抱いた。

朋美の中に入っていくとき、リュイスはアルコールの酔いの頭の混乱とともに不思議な強い興奮を覚えていた。

不思議な妄想。かつて恋い焦がれたが応えてくれなかったアセクシュアルの女性、日本人のマリが、彼をついに受け入れてくれている。そんな思い。

今、彼のほとばしる気持ちを受け止めて自分も昇りつめてくれている、その人がかつて好きだった人のようでもあり、会ったばかりの朋美のようでもあり、誰だかもうわからない、でも、その誰かが自分を完全に受け入れてくれている。そして自分にたまっていたものをすべてはきだす。不思議な達成感、満足感、自分の生についての肯定感が体中に広がっていった。

仰向けになると、まだ火照った体の朋美を胸に優しく片手で抱く。

快楽の余韻に浸る女性、対照的に、性欲をはきだして醒めた賢者の時間に浸る男性。よくある組み合わせ。

醒めたリュイスの頭が思う。

会ったばかりで、もっとゆっくりした交流や感情の積み上げなく寝ちゃうなんて低予算のポルノ映画みたいだな。それとも、あれかな、10年以上前から引きずってきていたマリに対する自分の気持ちがやっと満たされたということなのか。俺はワルい奴にはなりたくない、誰にでも誠実に接したい、人を利用することはしたくない。でも、朋美はアフロディアが切れたら、恋愛や性的な関係に無関心になってしまうのだろうか。アセクシュアルに逆戻りなのか。。。

それでもいい。この人は大事にしないといけない、と本能が言っている。

「トモーミ、来月12月クリスマス休暇の予定は?」胸の上でリュイスが朋美の手を自分の手で捉えながら聞く。

「とくにまだ決めてないわ。どうして?」

「カタルーニャの葱って聞いたことある?」

朋美は首を振る。

「カルソッツって言うんだけど、形は日本にあるような長ネギみたいなんだけど実は玉ねぎの一種で特別にそういう形になったので、僕のおじいちゃんの故郷のタラゴナのバイスっていう村で冬だけ食べられる焼き葱があるんだ。うまいんだよね、焦げた外側をはずしてなかのトロトロのところを美味しいロメスコソースつけて食べるんだ。12月に1週間くらいバルセロナにおいでよ。いっしょに、バイスに行ってカルソッツ食べようよ」

「はい」朋美は答える。

「薬は、アフロディアの接種は、できればもうやめてほしい。君が変わってしまってもそれは受け止める。もうわくわくする恋愛はなくてもいいんだ、落ち着いた静かな信頼できるパートナーが欲しい。それが今の正直な気持ち」

朋美もうなずく。

朋美は思う。そういえば、皮肉屋で悪口ばかり言って、時に朋美に鋭い警告を与えてくれる、自分の別人格、ワル美、Evil Beautyが最近でてきていないわね。彼女なら、どう言うかしら。

リュイスを100%信頼できるようになったら、そう確信できたら、ワル美のことも相談してみよう。そう思う。

二人はその晩で一番濃厚で長いキスをした。



ソファに放り投げられてミュートにしてあったリュイスの携帯が、その時に一通のテキストメッセージを受け取っていた。リュイスのバルセロナのパデル仲間の日本人ナスからのメッセージだった。

「ドノスティアから戻ったら会おう。マリの消息がわかったんだ」

 

No.8 アルゴリズム


ドノスティアの学会から2週間後の2054年の11月の最後の週末に、カムリ(ウェールズ)共和国の都市カーディフで、後々に「21世紀の科学と宗教のカーディフ・ダイアログ」と呼ばれることになる、識者による一大論争の会議が開かれていた。

その年2054年の初めに、カーディフ大のビッグデータ研究チームがある研究成果を発表して世の中を驚愕させた。

それは、これまでの科学そして宗教の在り方を根本的に見直さなければいけないような内容の論文で、科学誌ネイチャーサイエンスに発表された。

ニュースの見出しは衝撃的だった。

「ビッグデータが生まれ変わりを実証」

論文によれば、21世紀半ばになり、世界の人口100億人の最貧国人口を除く70億人ほどの個人のあらゆるデータ、生物学的、医学的、社会的、SNSでのポストなどすべてのデータがオンラインで統一サーバーに統合された結果、AIで高度化された強力な検索エンジンがそのビッグデータの解析を繰り返した結果、「死者と同時期の出生の新生児の間に統計的に有意な情報の伝達パターン」を発見したという。

さらに、医療の学際チームの協力を得てその伝達当事者ペアについてあらゆる医学データを収集解析してもらったところ、ある人が死ぬとその人のDNAの遺伝子情報には含まれない「人格的情報」のようなものが、別の新たに出生してくる新生児に「波動のような媒体」でエネルギー伝達されている形跡をつかんだという。

たとえば、日本で死んだ人の人格情報がまったく違う遠い地域のたとえばセネガルで生まれた新生児に入り込んでいく経路らしき波動の一部を計測することに成功したという。

人々は、え?それって生まれ変わり輪廻転生の話?と、SNSがバズった。論文自体は専門的技術的すぎて万人が理解するものではなかったが、概要は以下のようなものであった。

DNA情報は生殖行為と妊娠出産を通じて両親から子供へと伝達され、子供はその情報をベースにしながら新たな個体を形成していく。それとは違う経路で、死者の個体の人格部分の情報が死から1週間ほど以内に電磁波のような波動となって空間へと放出される、それが、必ずしも時間の一致はないが、数週間以内のほぼ同じころ、距離や大陸は遠く離れていても、新たに生まれてくるまったく別の新生児に届き、新生児は自らの両親から受け継いだDNA情報に加えてその伝達されてきた人格情報のようなものをベース新たな個体としての人生を歩んでいく、その伝達経路の存在が部分的に測定された。

それって、「気」とか「魂」が新たな体へと入っていく、輪廻転生そのものだから、昔から突然ピアノなどならったことがないのにプロ級にピアノを弾く子がいたり、前世の記憶を持っている人がいたりすることの説明になると、目を輝かせた宗教家がいた。

実際はもっと複雑不明瞭で、その人格情報伝達も内容が100%でないであろうということが論文では予想されていた。伝達間ペアによってはその比率は高く、ペアによってはまったく次の人生に関与してない情報であったりしているようだと。しかしながら、輪廻転生のようななんらかの情報伝達が起こっていることだけは証明されたのである。

DNAでも祖父からその子でなく孫への隔世遺伝があるように、「魂」を受け継いだからといってそのままその前の人生の性格や気質や指向が100%受け継がれるわけではなかった。

また、仏教徒がいうように前世のカルマで悪い事したら翌世で罰(ばち)があたって辛い思いをするというような「善悪の基準」もそこにはまったく関係ないようであった。多くの宗教家が信じたかった全能な神や万能な法則がそのプロセスをつかさどっているわけでもなく、かなり気まぐれでランダムな形での転送であるようであった。

しかしながら、科学者チームが今後の研究課題としてあげたのは、おそらくはその人格伝達には何らかルールというか伝達メカニズムのアルゴリズム式のような作用手順が存在するのではないかということの検証。DNAが解析されて遺伝の経路がわかったように、波動を分析すればなんらかの伝達の法則がわかるかもしれないという今後の研究での期待であった。

前世の気質のうちのいくつかがかなりランダムに翌世に再度発現する。そのままそっくりの人格が再現されたり、あるいは真逆で仏教でいう前世のカルマを引きずるように前世でのしくじりを悔い正すような形で発現することもある。気難しいとか活発だとか優しいといったそれぞれの気質が伝達されたり、広くは「ジェンダー」で定義される性的指向もその新たに発見された伝達経路で伝わっている可能性について論文は示唆していた。

カーディフ会議は大いにもめた。会議場外では、宗教団体や一般市民のデモや小競り合いも起こった。

宗教家の中には論文は神を冒涜する内容だと非難の声をあげるものもいれば、この新たな知見をどうにかして新しい宗教観のなかに組み込んでいかないといけないと前向きにとらえるものもいた。

社会学者は、この発見が死生観そしてそもそもの人生観を大きく変えてしまうリスクについて、慎重に考えていかないと大変な混乱が生じてしまうと警告をならした。死んでもまたそうした魂のような自分の気質がどこかで受け継がれ生まれ変われると思ったら、めんどうな人生のリセットボタンとして安易に死を選ぶ人が増えてしまうことを恐れた。

不思議なことに、会議に参加していたジェンダー学者の間ではこの人格情報の引継ぎのプロセスを前向きに捉える意見が相次いだ。その背景にはSNSでもバズったトロント大学のジェンダー論の第一人者の黒人女性エリカ・スティーブンス教授のこんな談話があった。

「そうなのね、人格情報や気質が前世から受け継がれるのね。それって、素晴らしい事じゃない?

ヘテロセクシュアルでも、ホモセクシュアルでも、アセクシュアルでも、その他なんでも多様なジェンダーの在り方が、生まれ変わりの中でランダムに顕れる、それぞれが前世からの今世への大切な贈り物と考えたらどうかしら。

社会がマイノリティのジェンダーについて普通の人とは違うおかしな病気のように医学的に「治療」をしようとしたり、本人も自分が普通と違うことに悩んだりする。それ自体がおかしいのよ。

今世はそのジェンダーで生きてみましょうよという前世からの贈り物。前世の行動の罰でもないし、何億年か前に知性がある人類が誕生して人間がこの生まれ変わりを何度も積み重ねていくうえでのひとつの体験学習なのよ。一度マイノリティのジェンダーの人生を経験したら、次の人生では表向きは無自覚だとしてもマジョリティのジェンダーの人生でも心の奥深くでその経験はしっかりと生きてるんじゃないかしら。。。」

スティーブンス教授は、先のドノスティアの学会でリュイスのアセクシュアリティ治療を批判する発言をした女性であった。



ドノスティアからバルセロナに戻ったリュイスはさっそくパデル仲間の日本人ナスとカフェで会う。

いつも冗談ばかりのナスが、真面目な顔をしている。

「リュイス、ショッキングなニュースだ。動揺しないで聞いてほしい」
ナスが言う。

「10数年前にオレがお前に紹介したマリ、飯野真理は、5年前に病死していた」

「。。。」

「パリの大学を突然離れて消息がわからなくなっていたが、メキシコの首都から随分離れた山奥にある修道院で寝泊まりしていたらしい。修道院を手伝いながら。

それが、5年前にすい臓ガンにかかってメキシコの病院で息を引き取っていた。

2049年の11月。メキシコの病院のデータベースで確認できた」


「。。。かわいそうな、マリ」

リュイスの目から大粒の涙がこぼれた。

「ひとりぼっちで死んだんだ。。。」

顔を両手で覆って、場所もはばからず嗚咽しながら、ぼろぼろと涙を流した。

未来学者ペドロ・マルチネスは、ロヴァニエミ会議の主要メンバーに次回会合での主要議題について根回しを始めていた。

彼としてはいたって簡単な結論であり、民意を問うという意味でごく自然な提案となっていた。

【2040年代に独立した欧州の新興国家について、2055年中に独立維持か独立再考の住民レファレンダムを実施すること】

カーディフ・ダイアログにも参加していたマルティネスは、駅にほど近いパブで、ウェールズ産赤ワインを傾けながら古い友人につぶやいた。

「質の悪いハードリッカー飲んでね、頭にぽおーっと血が上ったような酔いはね早いうちに醒ましたほうがいいんだよね。。。関係ないが、このワインは後味は悪くないが、まだまだ若いな。。。伝統とか文化とかはね、過去の長い歴史の積み重ねからの現代への贈り物みたいなものなんだよ。軽いもんじゃない。ローマは一日にしてならずだよな」

そのカーディフから西へ電車でブリストル海峡を左手に見ながらたった1時間くらい行ったところにある街スウォンジーでは、朋美とノエリアの勤務先の病院での日常が再開していた。

ドノスティアから帰ってからの唯一の変化といえば、朋美がアフロディアの接種を止めたこと。

不思議と、朋美のリュイスに対する熱い気持ちにはあまり変化はなかった。

朋美は病院のシフトを調整してクリスマス休暇を申請すると、バルセロナ行のフライトを予約した。 



No. 9 恋は盲目・愛は瞠目


12月、カムリ(ウェールズ)でも、木枯らしが吹いて体の芯まで冷やしてくる辛い季節だが、同時に、街では赤や緑の光に溢れた遊園地ウィンター・ワンダーランドが開かれたりと、人々の心の中にささやかながら暖かい気持ちが灯る頃でもあった。

ノエリアはバルセロナへ休暇へとひとりで立つ朋美を、カーディフ国際空港まで彼女の小さなローバーミニEVで送ると言ってきかなかった。

「ついでに帰りにあのお城のところのワンダーランドみにいくからいいのよ。マーケットで買い物もしたいし。ああ、今年もたいした出逢いがなかったわね、私」

「ノリー、きっと来年はいいことあるわよ」朋美は助手席で励ます。

「それで、本当にあなたの気持の変化はないの?あなたが、アフロディアの接種を途中で止めた唯一の例だから、臨床チームが経過観察にうるさいのよ。それにリュイスの倫理的問題もちょっとあるし」

「自覚症状はとくにないの。もちろん、あの偽パイロットの時のようなどん底に突き落とされたような嘘の恋愛の後の絶望感はないし、リュイスへの気持もどちらかというと落ち着いた好意という感じ」

「ほんとはガーディアンとして付いていってあげたいんだけど」

「ノリー、英語でも like と love の違いがあるでしょ、そんなに明確でないとしても。スペイン語でも querer と amor だったっけ。そういえば、あなたが好き、スペイン語の『キエロ』は日本語だと『消えろ!』に聞こえるのよね。好きなのに、消えろ!なんて真逆。こないだリュイスが笑ってた。

日本語だとね、恋と愛の違いはね、恋はかーっと相手に夢中になってしまうようなことを指すんだけど、愛のほうは落ち着いた、相手を尊重して人生をいっしょに送っていきたいというような気持ちを指すみたい。ことわざもあるわ、恋は盲目、愛は瞠目。

When you like someone very much you become blind about someone you like, but when you love someone, your eyes are wide-open to understand and appreciate your love かな 」

「日本語便利ね、短いのが、そんな深いのね。私も doumoku love してみたいわ」

バルセロナ国際空港に着くと、イミグレを出たところに、リュイスとその友達らしい二人が迎えに来ていた。

「トモーミ、これ僕のパデル仲間の日本人のナス、そしてそのワイフのカタルーニャ人のエッダ」

バルセロナに住み着いてもう長いのか、同じラテンのノリでナスは初対面の朋美にハグ・両頬キスしてきた。

そして日本語で言う。「那須泰彦、在バルセロナ33年目です。リュイスからいろいろ聞いてます。実はうちのかみさんも日本語ぺらぺらなんですよ。なので今日は日本語でいきましょうね」とほほ笑む。

リュイスがいたずらっぽく笑って聞く。「朋美、20世紀のカンフー映画の役者ジャッキー・チェン知ってます?」

朋美はうなずく。もう100年くらい前に活躍した香港人だが、映画をみたことがあった。たしかあまりにも北京よりの言動で香港独立派からは忌み嫌われていた役者だったのではなかったか。

「どうです?ナス、似てるでしょ?ジャッキーに。それで僕は時々あだなでジャッキーって呼んでいるんです」

「似てない、似てない」ナスは首を振る。「似てるわよ」とエッダが笑って口を挟む。「もう、こいつら、東洋人ならみんなジャッキー・チェンにみえちゃうんだから、もう2050年代なのに。。。」

ナスの車で海岸沿いの住宅地ポブレノウに寄って荷物を置いてから、冬なのに海岸沿いに風よけのビニールをはりめぐらせて営業している、パエージャの名店だという店に行く。

実は朋美はバルセロナは初めてだった。リュイス達は、まずは完成間近(と幾度も過去に言われてきた)サグラダ・ファミリアの見学が予約してあったので行って、それから旧市街のゴシック地区を探索してから魚市場の店でシーフードを食べるというプランを提案した。

朋美はテーブルの隣のナスにこっそり聞く。「ジャッキーさん、あ、じゃなくてナスさん、ひとつ聞いていいですか?」

ナスは「ジャッキーちゃうわ」といいながら耳を寄せる。

「カタルーニャもラテンですよね?私、シンガポールもウェールズも、ラテンとは程遠くて、元英国領の中華文化圏だったりブリテンの土着ケルト人文化だったりしか知らないんですけど、ラテンの人って、なんていうか、人間関係あったかいですよね?べたっと、おせっかい焼きで、よくしゃべるし」

「そうそうそうなんですよ。到着3時間にしてもう理解したか、朋美!さすが。俺、そこに惚れちゃって早33年」と笑う。

「まあ、暗い奴や気難しい奴も当然いるけど、家族思いで友達思いで、べたっと人間関係ウェットというか、そういうところあるよね」

「難しい日本語禁止」とリュイスとエッダが会話にはいってくる。

朋美は笑って、エッダに聞く。「エッダって、北欧の女神の名前と同じだったかしら?」

「そうそう。ラテン系としては珍しい名前なの。親がなにか本見て響きがいいと思ってつけてくれた」

「ナスとはどこで?」

「ティンダーのカタルーニャ版で。もう10年前だけどね、バツ1のカタルーニャ語喋る日本人っていうプロフィールに興味持ったからだったかな。日本人なのにバルサの仕事やってるっていうのもポイント高かったわね」

「ナスさんはエッダと会ったときの印象は?」

リュイスが口を挟む。「こいつね、ブロンドなら誰でもいいんだよね。ブロンドのカタランに憧れてバルセロナに来て、最初の奥さんも小柄なブロンドのショートカットの可愛い子。ある種のフェチだな」

「てへへ、お前だって日本人女性フェチじゃないのかねえ?」

ナスは続ける。「人間だれしもフェチを持つから人生が楽しいんだ、とまとめておこう。ところで、朋美は飯野さんだよね。家族のシンガポール来る前の出身県は?」

「三重、おじいちゃんが10年くらい前までまだ伊勢神宮の近くに住んでいた」

「三重か。やっぱ、紀伊半島ってイベリア半島だよな。パルケ・エスパーニャっていう20世紀の遊園地まだ三重に続いてるし、カミーノとセットで歩くのが定着してきた和歌山の熊野古道あるしね。

そういえば、飯野さんっていう、三重出身でフランスに長かったあなたより10歳くらい年上の親戚とかいたりしないよね?」

リュイスの顔がちょっと陰る。そして、話題を変えようと口を挟もうとすると朋美が応える。

「いないですね。知ってる限りは。飯野一族けっこうドメで、私のおとうさんが親戚の中では異端児でなにをおもいたったか20世紀の終わりころにシンガポールに移住して私がコロナの最中に生まれたんです」

リュイスが話題を変えに入る。

「さあ、みんな、明日のタラゴナはバイスの葱づくし、カルソッツへの心の準備はいいかな?朋美、君が今まで体験したこともない、究極のウマミが待っているんだ」

ナスが言う。「大げさ。でもあれは美味いよ。日本の葱とも違うけど、あの甘ーいとろけるような葱の旨味、それを極上のロメスコソースつけてつるっといくともう最高。それをね、ポロンっていう尿瓶みたいな器にはいったワインで流し込むんだ」

「尿瓶はないだろ!あれ難しいんだよ、高いところから口につけずに口に流し込む。ロゼとか赤ワインなんだけどああやって飲むのがカルソッツにあうんだよね」  



遅くまで飲み歩いたバルセロナの夜の翌日、4人はナスの車でバルセロナから1時間ほど南下したところにあるタラゴナのバルスへ向かう。

人口3万人ほどの小さな町。人間の塔とカルソッツで有名。ほかにはとくにこれといった観光的見どころのない小さな町。

リュイスが小学生の頃、コロナ禍だった2020年に、まず父親が、そして数か月後にそれを追うように母親が呼吸不全で死んだ。その後、妹といっしょにリオハに住む母方の叔母ところに身を寄せることになるのだが、まだ元気だったバルスに住む祖父母が半年ほどバルスへ二人を連れて行った。

町はロックダウンされていて、両親を亡くして住んだ半年にはなにも楽しい思い出はないのだが、カルソッツの思い出だけが記憶に残っていた。寒い冬のある日、裏庭でおじいさんが葡萄の枯れ枝を集めて燃やして、その上にグリルのような金属の網を置いて葱を焼いてくれた。厳密に言うと、葱ではなく玉葱を細長く改良したもので独特の旨味と風味があった。

本来は、友人や隣人を大勢呼んでわいわいワインを飲みながらの冬の年中行事のはずが、裏庭で静かに、祖父母と妹の4人だけで葱を焼いておばあさんの自家製のナッツやトマトやパプリカなどがはいったロメスコ・ソースをつけて食べた。あまりにもおいしくて食べ盛りだったリュイスは葱を40本も平らげて、おじいさんを喜ばせた。暗い時代の、唯一、明るい記憶。

そんな昔話をしていたら、車は目的のレストランの近くの駐車スポットについた。

「うれしいな、この店、まだ続いてて」リュイスが言う。
「そういえばおまえと知り合った頃に連れてきてもらったのはここか?」
「そうそう。おまえの前の奥さんのマルタといっしょにね」

さっそく、黒焦げになった葱が目の前の新聞紙の上に山積みにされる。

4人とも既に店が提供するバイオデグレイダブルビニール手袋にエプロン装備である。朋美は、今時、新聞紙なんて存在してたのだろうかと思ってまじまじと見ると、カタルーニャ語で意味不明だが、2005年という日付が見える。なんのことはない過去の新聞の復刻版を模した単なる紙だった。

リュイスが神妙に食べ方を指南する
「こうやって、緑のところを持って、焦げた外側を剥がして、トロっとした中の白い部分を出してね、それでそれをロメスコ・ソースにたっぷりつけて、空を仰いで上から口に入れて一口で食べきる」
「ソース二度つけ禁止ね」とナスがカタルーニャ人にわからない軽口をたたく。

朋美も見よう見まねでやってみる。ちょっと熱そうだったので白い葱をフーフー数回吹いて、ソースをつけて食べる。親鳥がくれる餌を求める雛のように上を向いて口を大きく開けて。

「おいしーい」

ねっとりと、ジューシーで、柔らかい葱に、ロメスコソースがよくあう。昔、シンガポールで飲酒年齢18歳になった時に父親に二人だけで行ったシンガポールの焼き鳥屋で食べて感動した、ねぎまの葱の旨味を思い出した。

ポロンというデカンタのようなガラスの器で、口をつけずにワインを飲むのも、3人の真似をして思い切ってやったら、最初からうまくいって、一滴もこぼさず飲めた。

「朋美、前世はカタルーニャ人だったんじゃないの」とエッダが笑う。

「いま流行りの前世探しか。こないだのカーディフ会議は白熱の議論だったらしいね。どうなんだろうね、あれ」ナスがリュイスに聞く。

「まだイビデンスが十分じゃない感じだな。なんらかの伝達経路があるとして、それがどれほど意味をもつものなのかもわからない。僕らが生きている間にどれだけこの深淵な人生の謎が解明されるかはわからないね」 

ナスが真面目な顔になって言う。「俺はね、前世はわかってる。バルセロナのゴシック街あたりで靴磨きでもやってた子供で、早死にして、童貞のまま死んじゃったんでまたここに呼び寄せられてきたっていう感じ」目が笑っていた。

ちょっと酔ってきた朋美が聞く。朋美はアセクシュアルな気質と関係があるのかないのか、時々、ちょっと無遠慮なことを聞いたりする。「ナスさんは、前の奥さんと別れたのはなにがあったんですか?」   

「あ、ダブル不倫ね」エッダもいるのに、あっさりとナスは答える。

「俺がさ善意でね、バルセロナにいた日本人の留学生の相談にのってたらさ、かみさんが俺とその真澄ちゃんとできてると勘違いして、かみさんも幼馴染の独身のやつと遅くまで2人で飲みに行ったりして、俺のほうもなんか真澄ちゃんといい感じになっちゃって、なんか収集つかなくなっちゃったんだよね」

「ナスさん、けっこうダメ男(お)ですね」つい、朋美は言ってしまう。

聞いていたエッダが聞く。「なに?そのダメおって? Dame? Damelo?」  

リュイスが笑う。「エッダさん、それは日本語ですよ。スペイン語の『それ私に下さい』のDameloじゃなくて。ジャッキーみたいなダメな男のことをダメ男(お)っていうんですねえ」 

ぼろくそに言われても、ナスはどこ吹く風、いっしょに笑って、葱の後にでてきたグリル肉や魚をつまんでは、今度はビールを飲んでいる。



夜、バルスの小さなホテル。

二人は強く抱き合った。

いっしょに過ごすまだ三度目の夜だったが、朋美にはすべてが素晴らしく感じた。

以前に感じていた性的なことに対する嫌悪感にようなものも少し薄れて、この人ならいいと思えた。自ら性欲を持つというのと違うけれどこの人なら許せる、そんな感じだった。そして、いっしょになれることに、とても満たされる気持ちもした。

賢者の時間のリュイスが言う。

「朋美、ひとつちゃんと話しておかないといけないことがあるんだ」

朋美はほゎっとした気分の中にいたが、それを聞くと答えた。

「私もお話ひとつあるの」

「じゃあ、僕から。

ドノスティア学会での質疑応答でもいったけど、10数年前にナスの紹介でナスの大学の後輩だっていうマリに会ったんだ。僕は恋に落ちた。僕はもともと惚れやすいタイプだった。そして醒めにくい。

当時マリはパリの大学にいたので、僕は週末になるとバルセロナから訪ねていた。あせらず、ゆっくりと好意を示したつもりだったが、彼女はフレンドリーだけど、奥ゆかしいというか男女の関係には慎重だった。そして、あるとき、彼女が酔って、それで目に涙をいっぱいためながら話してくれたのが、自分はアセクシュアルだと思うということだったんだ。

僕は良く言えば一途、悪く言えばストーカー気質だったので、気をつけながらも辛抱強く自分の気持を伝えた。でも、だめだったんだよね。嫌われはしなかったけど、遊びに行くと時間をとっていっしょに食事したり飲みに行ったり楽しい時間を過ごしてくれたんだけど、距離は縮まらなかった。そしてある日、今から10年前くらいかな、連絡が全然取れなくなった。大学に連絡しても急に辞めたとしかわからず、下宿の大家さんも何も知らなかった。ナスにも頼んで日本もさがしてもらったけれど、何もわからなかった。

それが先月、ナスが彼女と共通の日本人の知り合いが彼女がメキシコに行ったようだという噂を聞いた。それでメキシコのありとあらゆるデータベースを調べたら、ある地方の病院の死亡者リストにマリの名前が見つかった。5年前にガンで死んでいたんだ。さらにわかったのは、パリを離れてから、そのメキシコ南部の山奥の修道院に住み込み手伝いのような形で3、4年住んでいたらしいんだ。

僕はなにも彼女にしてあげられなかった。あんなに好きだったのに。

彼女はメキシコの熱帯ジャングルの山奥で、独り寂しく死んでいった。可哀そうに。可哀そうな人生。可哀そうなマリ」

静かに聞いていた朋美が言う。

「それは、違うと思うわ」

「マリさん、本当に寂しかったら、友達として、人間として好きなあなたに救いを求めていたはずよ。その連絡がなかったということは、彼女にとってその生き方が自分で選んだ、迷いのなかったものだったからよ。

彼女の優しさが、あなたを誤解させたくない、いまはあなたの恋の熱が冷めていくまで離れていようと音信不通にしたということはあるかもしれないけれど、あなたがそばにいないから独りぼっちで寂しい人生だったということはないと思うの。

カーディフ会議のニュースみたでしょ?輪廻転生かなんだか知らないけど、前世までのなんらかの経験の積み重ねから今世をどう生きていくかっていう青写真のようなアルゴリズムが働いてるのよ。彼女にとっての今世は、そういう人生を生きるように予めデザインされていて、アセクシュアルなジェンダーの人として、山奥の修道院で現地の人たちと交流しながら、有意義な人生を送ったと思いたいわ。そのジェンダーは罰じゃないし、病気は罰じゃないし、あなたに連絡がなかったからといって、山奥だったからといって、独りぼっちで寂しい人生じゃなかったのよ」

リュイスは黙って聞いていた。そして言った。

「ありがとう」

「支離滅裂でごめんなさい、それに言い過ぎた」朋美は言う。

「あ、私のほうの話ね。

人格分裂みたいな話。

本当は治験のプロセスで言っておくべきだったかも。

私ね、3人姉妹の長女で、家では親にはいいお姉さんを演じなくちゃいけないし、学校でも優等生だったから、いい子を演じてきた。でもその頃、悪い言葉で罵りたいような気持になると、頭の中で声がしたの。

その声の主はとても強くて、言いたいことをずばっと言ってくれた。看護士になってからも、わざとじゃない振りして胸をさわってくる年寄りとかいるとね、このエロじじい!とかののしってくれるの。私はその人格のことを、いつの頃からか忘れたけど、悪い私っていう意味で、朋美じゃなくてワル美、英語だと邪悪な美、Evil Beautyって密かに命名して、心の支えにしてきた。

それがね、アフロディアの接種を受けて最初の1、2か月くらいはむしろ前より攻撃的なことを言っててうるさいなと思ってたら、その後、いままでほぼ1年近く、ワル美がでてこなくなったの。

それだけの話なんだけど、治験で話していない後ろめたさと、接種を止めた今、それがどうなるのかしらと思って。

あなたに会えて、あんな暴言を言う役割の人格の必要がなくなったのかなんて、思ってたのだけど」

「へえ、分裂した人格がより独立して激しくなっていったケースは2、3聞いたけどね。それがなくなってしまったというのはなかったな。

いずれにしても、ごめん、そういう精神・心理学的なのは専門じゃないんだ。僕の専門は脳神経内科なんだ。どうやって薬で脳内ホルモンをコントロールするか。でもね、話してくれてありがとう。なにか困ることがあったら、なんでも僕を頼って話してほしい」

二人は再び抱き合った。



カタルーニャでの休暇からの帰りのフライトで、朋美はふと思って、自分の携帯の検索履歴を確認してみた。

もしかしたら、ワル美が勝手に私が意識してない時に暴走してたりしないかしらと。

以前のような変な、自分が検索するはずのない単語の履歴をみるということはなかった。

不思議なことに、これまでいつもオンにしていた履歴記録自体が、オフの設定になっていた。



クリスマス休暇から帰って年末の夜勤をこなしていると、リュイスから朋美にメッセージがはいる。

来年2月14日に、カタルーニャ、エウスカディ(バスク)、カムリ(ウェールズ)が緩やかな協力体制設立に合意して、その頭文字をとって「CEC共同体」の記念カクテルパーティがビルバオの郊外で開催される。

リュイスの友人でもあるカタルーニャ首相が、リュイスとその significant otherを招待してくれている。めったにない機会であり、また、会場がなかなかエキゾチックな場所なので、ぜひ朋美に来てほしい、と書いてある。

その会場の島だという、やたらスペリングがいかついバスク語を検索してみる。

Gaztelugatxe、ガステルガルチェ。険しい岩山の教会の写真がでてくる。

不思議なことに、既視感を覚えた。映画ででも観たのかしらと思う。

リアス式で入り組んだビスケー湾の、石橋で陸とつながる岩の島。絶壁の岩の島の上にある教会とその横の狭い広場が今回のカクテル会場だという。セキュリティ上から各首脳に加えてゲストは総勢50名以内であり、各国7組のペアのみだという。

かつての朋美だったら気後れして遠慮したくなるような集まりだったが、リュイスといっしょなら大丈夫と思い、朋美は「YES」と返事を打った。


おまけ: ガステルガチェ(城の岩山)

(スペインのバスク自治州のビルバオ北部のビスケー湾にある島。石橋によってイベリア半島本土と結ばれている。頂上には、9世紀または10世紀に建造されたとされるサン・フアン・デ・ガステルガチェ礼拝堂がある。TVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のロケ地としても有名


No. 10 邪悪な美


アムステルダムの中央駅を出て左のほうへ進んだところにある「飾り窓地区」、別名レッドライト・ディストリクトの赤と黒で飾りたてられたいかにも淫靡な雰囲気のカフェ。入り口には "GESLOTEN"、オランダ語でCLOSEDの意の札が下がっていたが、中からうっすらと光が漏れていた。

大麻の煙がただようカフェのさらに奥の小さな部屋に、3人の男がいた。

部屋は狭いながら、暖炉があり、アンティークの書斎机とソファセットがあった。3人はそれぞれ、ウィスキーかワインの入ったグラスを片手に葉巻をくゆらしながら話していた。

「なるほど、君たちのプランの大筋はそういうことか。来年中に各新興国で独立の是非を再度問うレファレンダム実施を発表させて、実施までに世論をうまく形成する」

「はい、閣下」

1人だけ50歳台と思われる男が、他の70歳は越えているとみえる2人のうちのひとりに答える。

「閣下はやめてくれよ、飾り窓地区には場違いだな」と閣下と呼ばれた老人が笑う。

「曲がりなりにも君は国王に次ぐ存在だったからなあ。私は、EU議会の副議長どまりだったが」

そう言って葉巻をくゆらしたのが、EU議会の保守派の重鎮、議員を退職してからは保守派のフィクサーのように暗躍しているフランス人M。

閣下と呼ばれたのは、ブリテンの保守党元幹部で2030年代にリリーフのように半年だけ首相の座にあった元首相S。二人とも1980年代生まれの古いタイプの政治家だった。

「君はロバニエミ会議にも来ないが、このペドロはね、2050年のベストセラー『新国家論』著者の未来学者としてはかなり名が知れたマルティネス博士だよ」

「よく存じてますよ。私は会議はダボスで卒業、もう表向きの政治の場には顔をださないことにしているんだ。

マルティネス君の、EU進化論というか、地域統合で、「通貨発行」、「軍備」、「徴税・歳出予算」などが統合化された統合の最終ステージでは、それら国家としてのかつてのエッセンスがコンピューターの基本機能のOSのようにブリュッセル主導できちんと動いているので、「文化」とか「愛国心」というユーザー・インターフェイスには自由度があってよい、しかしながら、その自由度もどこかで線引きが必要、という本での主張には賛同するね」

「ありがとうございます。やはり、過去2000年くらいの歴史の中で、不幸にも自らの文化が封印され異なる文化に同化を強いられたことがある民族にとっては、独立のレトリックが熱狂的な支持を得るのはもっともなことで、それが私が本で『理想に浮かれた熱狂』と呼んだ2040年代で、その後には『醒めた頭に二日酔いの頭痛が襲ってくるに違いない』と警告していたのが、まさに起こりつつあるのが今の2050年代と言えます。

かつて禁止され失われつつあった母国語を喋りたい再現したい、それは当然の民族としての欲求です。それは、ぜひいったん十分に味わってもらえばいい。

例えていえば、初恋を知らずに大人になってしまった人間に、方法があるならその甘美な恋心を味わってもらうのは悪い話じゃない。

でも現実には、もともと母国語とはいえ新たな言語での教育制度の再設計と運営は大変なことだし、一般大衆は民族の言葉で歌を歌ったり祭りで集ったりは楽しくていいけれど、今さら日々の生活も慣れ親しんだ言語から変えるのは面倒というのが現実だと思うんです」

「まあ、予想できたことではあるな」Mはフランス語訛りの英語でつぶやくと、ふっと葉巻の煙を吐き出す。

「母国語と愛国心、何百年も何千年もかかって醸成される基盤。これは、中央アジアのEU加盟国ジョージアに滞在して感じたのですが、あの国は2000年以上ローマやペルシャやトルコやロシアに蹂躙されながらも、独自の言語と文字をいまだに保っている。ジョージア人は当たり前のように自らの文化を守っている。極東アジアの日本も、国民は意識しなくとも、あって当たり前の空気のように国そして同胞に対する愛があるようで、私なりの『線引き』は独立国家たるもの母国語が自然に定着していることというのが結論なんです」ペドロは言う。

「それでM君、今日の我々の極秘飾り窓会談の主題はなんなんだい?」Sが聞く。

「カタルーニャ。。。」Mが顔をしかめて言う。

ペドロが続ける。

「カタルーニャは前世紀の終わりの20年くらいのスペインの自治州の頃からそれなりに母国語教育をやってきていた。それよりも、スペイン語とフランス語の間のようなカタルーニャ語とスペイン語の親和性が高く、バイリンガルを自称する人も多かった。独立後まだ4年ですが、あの国は着実にカタルーニャ語率を上げてきています。現政権も経済危機にみまわれているにしては高い支持率を得ています」

「プチドモン」Mが吐き捨てるように言う。

「あいつの爺さんにはわれわれも手こずったなあ」とSもうなずく。

「孫も生意気な奴だが、世論調査するとカタルーニャだけが独立継続派が大多数になっている。他の国は、まだまだ我々がちょっと工作すれば独立状態からの脱却をめざす再統合派の独立EXIT派が巻き返せるんだが」

「独立からのEXITか。INDEPE-XIT、インデピジットとかいってるやつだな。オキシモロン、自己矛盾の表現だが、BREXIT、英国EU離脱を思い出すなあ。それで、どうしたらいい?」Sが二人の顔をみる。

「Mがよく知っているように、私は元MIー5の政治工作ストラテジストのXという凄腕のやつを庇護下に置いている。政治信条などまったくない、政治工作が楽しい愉快犯みたいなやつで、仕事は一流。野放しにして反体制に金で利用されると非常に危険なので、私が抱えて体制維持側につけているんだがね。

Xは、これまでも、政治家の女性スキャンダルから、収賄事件のでっちあげ、派手な都市部でのテロ、誘拐、いろいろやってきている。毒殺もやるし、このあいだは新型の小型プラスチック爆弾の話を新しいおもちゃを得たように嬉しそうに話していた。危ない奴だ。

まあ、21世紀だからね、ドンパチ、暗殺は古いし、へたすると、逆効果で、変な政府の陰謀論や死者が英雄視されたりするんであまりお勧めしない」

「もったいぶらないでくれよ。新興国リーダーへの工作の相談をしたら、いいアイデアがあると言っていたじゃないか」MがSに言う。

「あまり詳細はいえないが、工作実行の候補として、我々としてはこの上もない非常におもしろいアセットが確保できているんだ」

Mは葉巻を持った左手で、ペドロに席を離れるように促した。


Sは話を続けた。

「このアセット、今、身元調査の最終段階だが、おそろしいくらいに任務にぴったりの条件がそろっている。

ひとつに、欧州とはまったく関係がない出自。ふたつに、理想のスリーパー・セル、つまり、普段は無害な一般市民として潜伏して生活し、ひとたびアクティベートさせると我々が100%制御できる工作員として使えること。そして3つめとして、このアセットは既にターゲットに非常に近い立場にあるということ」

「どこなんだい、アフリカか?はたまた南太平洋の小国出身か?ヒントで地域を教えてくれよ」

「地域をいわなくても、このヒントで君なら国がわかるだろう。

地球上でこれまでの歴史で一番成功したコミュニズム社会を実現した国。

資本主義国家なのだが国民の平等意識が強い。

社会主義をうたいながらも弱肉強食の中国や北朝鮮なんかよりもずっとコミュニストな国。我々が生まれる10年前の1970年代にフランスや南欧が目指したゆるやかなユーロ社会民主主義なんかよりもっと国民が政府と社会におんぶにだっこの国。

急速な経済成長したが、ジニ係数で測って所得格差が英米のように格差が広がらなかった。毎朝、大企業の社長が社員といっしょに朝の体操したりするパターナリスティックな会社経営、新卒採用、終身雇用、年功序列の国。

でも、あまりにも横並びのコミュニズムがはびこって、それが政治的リーダーシップのでてくるのをさまたげて、21世紀、デジタルIT化で後れをとり、新エネルギー革命では取り残され、高齢化に対応できず、経済は長期停滞。2030年の世界経済恐慌の後は通貨が暴落して、今や先進国へミドル・スキルの出稼ぎを送り出す大国となった国といえば?」

「フィリピンといいたいところだが、それは、日本だね。うちの孫の家の家庭教師兼メイドは日本人なんだが、個人個人は素晴らしい。職人肌でとてもいい仕事をする。仕事ぶりは信頼できるやつらだ。20世紀は集団としても強かったが、いまや政治が三流でリーダー不在で迷走している」Mは言う。

「この日本人のアセットは、プチドモンの親友に近い。とても自然な形で」

「さらにちょっと説明するのが複雑になるんだが、当初我々も眉唾で慎重にチェックが必要だったんだが、たとえて言えばね、ジキルとハイドはジキル氏が意識して薬でハイドに化けてたんだが、このアセットではね、同じ体にジキルとハイドが人格分裂で共存していてジキル氏はハイド氏がなにしているかまったく知らないんだ。

こんな完璧なスリーパー・セルはないね、かなり特殊ケースだが。善良なジキル氏は工作員のカバーとしてでなく普通の人として普通に生活していて、隠れている邪悪なハイド氏を我々が必要に応じてアクティベートさせている。今のところは、主人格が夜中ノンREM睡眠に入ったところでスマホでコードとなる音をならして別人格をアクティベートさせて訓練準備、打ち合わせはすべてスマホで形跡をまったく残さないようにしている」

「そんなことができるんだ。。。でも、いまどき、人が死ぬテロはいかんな。なにかスキャンダルをでっちあげるか、リーダーたちのぶざまな姿をマスメディアに晒して支持率を下げるか。いくつかシナリオを考えさせてくれ」

「いかようにでも対応できる。。。ひとつね、アセット自身からちょっと不思議な要求があって、それで我々もちょっとレッドフラッグたてたんだが、身元調査でそれも完全にクリアできた。。。任務執行への法外な金銭的見返りとかうるさいこと言わなかったんだが、なんとね、ひとつだけ条件として、工作員としてのコードネームを自ら指定して要求してきたんだ」

「007じゃあるまいし、スパイ小説の読みすぎなんじゃないかい?だいじょうぶかね」

「『EB』というコードネームがいいって言うんだ」

「Europe - Britain じゃないだろうな?欧州政治安定の為の君と私の暗躍を暗示してるような。それはちょっとばれると後々問題だな」

「違うんだ。。。

Evil Beauty、邪悪な美、の略だというんだ」

「なんだそれ?、それこそなんかの小説のスパイみたいだな。女性なのかい?」

「身元調査させたが、SNSで使ったハンドルとかでもないし、彼女にかんするビッグデータにいっさいでてきていない単語だったから、OKとした」

「そうか、変ではあるな。でも、案外いいな。邪悪な美か。。。

あのプチドモンをうまく窮地へと陥れてくれそうな、ワルで、いい名前だ」



「Evil Beauty、コンバンワ。どうだね調子は?」

皆が寝静まった深夜、携帯の会議アプリ Zoon から50代の英国人男性が英語で語りかける。

「Mr.X、調子は、まあまあです」

朋美の別人格のワル美が支配した朋美が、なぜかスコットランドなまりの英語で応える。

「君は去年ヒットしたBBCのTVシリーズのスコットランドの女スパイに話し方が似ているな」

「私、あのドラマのレイチェル、大好きなんです。男に裏切られた過去をスパイ工作を通じて復讐していくプロットが最高です。朋美が観てたので知ってるんです」

「そうか。まあ、ドラマじゃないんでそんなに熱くならなくてもいい。我々の任務はもっとシンプルで、すかっとする成功よりもミスのない実行が大事だからな。

君の役割は、ひとたび我々が計画をアクティベートさせたら、指定の場所にいってただひとつの事を実行する。そしてその場からなるべく遠ざかるということだ。TV映画のレイチェルみたいにドンパチやるわけではない」

「パーティ会場で具体的にはどうしたらいいんですか?」

「まあ焦るな。まずは、君の1月の誕生日に我々からのギフトであるパースと腕時計を受け取ること。それが大事だ。そして2月のバレンタインの夜にそれをつけてバスクの絶壁の教会のカクテルパーティ会場へ行く。そしてあるタイミングでそれらを指定の場所に置いてそこを去る。それだけだ」

「まだ段取りがよくつかめていませんが。事前には、日中の間は朋美がアクティブだから、朋美が怪しまない形で配送されてくるギフトを受け取ることは難しいと思いますが」

「それは心配しないでほしい。我々の工作員が既に朋美の親友のアンドラ人のノエリア・プジョルに接触済。今やノエリアのボーイフレンドになったハイファッションEコマースの社長を名乗るその工作員が、1月の朋美の誕生日にノエリアと彼からのプレゼントとしてそれを贈る手配をしてある。晴れの場の2月のカクテルパーティに行くのにふさわしい高級品として」

「そのパースとかがなんなのか聞いていいですか?」

「爆発物と起爆装置。だが心配するな。爆発物を粘土に塗り込んだプラスティック爆弾を進化させたもので、繊維に爆発物が織り込んであり洋服でもパースのようなものにでもできる。特殊な繊維構造が高い爆発を促す。それなのに金属探知にもひっかからないし爆発物警察犬も嗅ぎ分けられない。起爆装置の起動がなければ落としたり熱したりしてもなにもおこらない。そんな新型爆弾だ。外見はどう見ても、たんなる上品なパースにすぎない」

「殺傷能力は高いんですか?」

「高いともそうでもないとも言える。でも、着実に強烈な爆風は起こるから、オレは爆発の100m以内にはいたくないな」

「それをどこに?」

「それは後日指令を出す。まあ、ヒントを言えば、古いアメリカ映画のゴッドファーザーでアル・パチーノがレストランで拳銃で警官を撃ち殺すシーンをYooTubeで探してみておくんだな。あれはいい映画だ。朋美は観たこと無かったか?」

「彼女、暴力描写の映画は嫌いだから、観てない。いいわ、私、こっそり夜遅くその動画を観てみる」

「朋美とリュイスの関係は最近どうかね?」

「あいつ、あの惚れ薬野郎、来月、バスクで会ったら朋美にプロポーズするかもしれない。

あいつなんて殺すことはないけど、ひどいめにあわせて、朋美との結婚なんてぶちこわしたい。単なる、アジア女性フェチよ。ストーカーみたいにしつこい。昔のスペイン人のコンキスタドール(征服者)みたいにアジアや南米のかよわい女性を自分の思うがままにしたいっていうタイプよ」



2054年1月、EU議会は2040年代に独立を果たした新興加盟国を対象に、EU加盟継続の前提条件として2054年年内の独立の継続の是非についての国民投票の実施を義務付ける決議を採択した。

独立継続の是非の議論は白熱して、内容は真逆だったが40年も前の2016年の英国EU離脱是非の投票、Brexitそしてその反対派のBremain、その論争を思い出した新興国住民も多かった。

10を越える多くの独立国で、独立当初の熱狂はかなり醒めてしまっていたのは否めず、とくに固有の母国語をリバイバルさせて言語教育に取り組んだ国のいくつかではその進捗が思わしくなく、教育の現場は混乱してきていた。新たに独自の歴史観で書き換えられた歴史の教科書や伝統文化学習のカリキュラムも、教育現場では21世紀のグローバリズムに逆行すると不評だった。

2040年には2030年代半ばの世界金融危機からのセキュラーな景気回復が起こっていたが、2050年にはいると再び景気回復は鈍化、2053年には設備投資の鈍化など景気後退のシグナルが目立ち始めていた。金利政策ならびに財政支出はブリュッセルが管理するAIが各加盟国の経済情勢を最適化して政策実施していたが、その効果は国によってまちまちであった。



1月17日は朋美の34歳の誕生日だった。

ノエリアと新しいボーイフレンドのウェールズ人のダフィットがスウォンジーに3つある日本料理屋の一番いい店を予約してくれていた。日本人の大将が切り盛りしている評判の店だった。

朋美がダフィットに会うのは2度目だったが、感じのいい30代のビジネスマンでブランド品のオンラインビジネスの会社を創業して成功させているとノエリアから聞いていた。

「トモーミ、パーティは黒のイブニングドレスでしょ?これ私たちからの誕生日プレゼント。開けてみて」

箱の中にはゴールドのチェーンの付いたシックな黒の布製のパースと、シンプルながらセンスのいい腕時計が入っていた。

「こんな高価なものもらえないわ」朋美は言う。

「いいのいいの。国家首脳とのパーティでしょ?これダフィットの会社の特注の商品で、そんなパーティでデビューできたら凄いプロモーションにもなるし。だから心配しないで。できたら、テレビカメラの前でこのロゴの部分を見せつけてきてね」と笑う。

「ありがとう。涙がでそう」と朋美も笑って、握り寿司をひとつ口に運んだ。

その店は地産地消で、ウェールズで採れるネタを中心に寿司を握ってくれる店であったが、久しぶりに来店してみると、そのクオリティはかなり上がっていた。軍艦巻きのウニがとても美味しかった。どこのウニかしらと思った。それにこの海苔もウェールズ産のはずだけど、とっても香ばしくてぱりぱりしてて美味しい、と思った。

ちょうど誕生日の前日の夜、リュイスからガステルガチェ島でのカクテルパーティの生体チップの入った正式な招待状とカーディフ空港からビルボ(旧ビルバオ)空港までのフライトのチケットが同封された手紙が届いていた。

私の人生で一番幸せな誕生日。そう心の中でつぶやいた。 ■

(No. 11 「絶壁の教会」に続く)

今後の連載予定:

No. 11 「絶壁の教会(ガステルガチェ)」(近日中)


No. 12 「エピローグ」(近日中)


この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとはこれっぽっちも関係ありません。医学的な知識はまったくでたらめで、SFなので政治的な内容はまったくの妄想で幾ばくかの根拠もありません。


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