いつか髪が伸ばせる日まで(2)

娘のこと

 髪切り不登校事件と書くと、まるで唐突に事件が起きて娘が不登校になったように見える。けれども事件後に利用した県の相談支援員の一人は「起こるべくして起こった、構造的な問題が原因の事件だと思う。」と私に感想を述べた。ある意味、不登校事案としては特殊な事案なのだとよく言われた。親の目から見た事件は、「健康だった娘が教師に髪を切られて心因性疾患にされ、不登校に追い込まれた」としか思えない。

 他方で、これだけの精神的衝撃、多大な苦痛を被りながらも、どうにか回復にこぎつけられたのは、これまたわが家の独特な事情が背景にあるのは否めない。その点については改めて書くとして、まずはなぜ「構造的」と評されたかの事情を説明するために、事件までの娘の背景をまとめておこう。

(1)娘と家族

 娘は平成14年生まれ。米国人の父と、日本人の私の間に、4人きょうだいの末っ子として生まれた。上の3人は全員兄、すぐ上の兄も4歳年上、その上の兄になると干支が同じと、更に上と年齢差きょうだいで育った。妊娠の経過、出産、その後の経過は異常はなく、事件以前に大きな病気も既往症もなく、ごく普通の健康な女の子として育った。若干、話し始めが遅かったのが心配だったが、それも2歳を過ぎる頃には気にならなくなった。検診では「国際結婚で英語が混ざる家庭環境だからではないか?」と言われた。

 夫の遺伝子が仕事し過ぎたのか顔だちは父親にそっくりで、黙って街中を歩いていると、ほぼ、日本人とは思われない。兄とゲームセンターで遊んでいてお札の両替を頼んだら、カタコトの英語で苦労して小銭の説明をされたとか、学校帰りの工事現場でいきなり「えっくすきゅーずみー!」と声をかけられたとか、ガイジンだと思われたエピソードはたくさんある。本人は日本語しかしゃべれないので、ちょっと気の毒だ。骨格や肌の色はコーカソイド系の特徴をモロに受け継いでいるが、背はぜんぜん高くないし、どちらかというと華奢な体格をしている。髪色はほぼ、黒。これも夫に似たのか、乳児期はくるんとしたパーマの栗色の髪が可愛らしかったが、成長に従って段々と色が濃くなり、中学入学のころはほぼ黒髪になった。日本人ばかりの集団の中に入ると、若干明るめかな?程度で茶髪というほどではない。
 小さいころからロングヘアを好み、いつも肩より下に髪を伸ばしていた。夏の水泳の時期に合わせてショートボブにすることはあっても、秋の運動会シーズンには髪を結んで参加していることが多かった。

 小さな頃から整った顔の娘は「可愛い」と言われ続けてきた。ハーフというだけでも目立つのに顔立ちが可愛いから、外出すれば見知らぬ人に勝手に写真を撮られ、CATVが運動会を撮りにくればカメラに追い掛け回される。夫が娘を連れて帰国しても似たようなことは起こった。
 親の私は自分の子の美醜をあまり認識できない性格なため、この「可愛い」にはとても不安を感じてきた。小さいころは「可愛いから許しちゃう」と過度に甘やかされないか?と心配した。
 山梨県は県庁所在地の甲府市でも欧米系の外国人があまり多くない。子ども時代を米軍基地の街で過ごし、高校以降を京都、社会人のスタートを米国とニュージーランドに現地法人を持つ会社で米国人のパート、アルバイトさんと一緒に過ごした私にとっては、夫は「ガイジン」という感じではない。けれども、出歩くたびにお店や図書館で物珍し気に見られることは疲れることだったし、田舎暮らし志向だったことも私たちが山梨県の中山間地に住まいを求める背景になった。小さなコミュニティーでは、住人は「個」であって人種で識別されないから、見慣れてしまえば「珍しいガイジン」とジロジロみられることはない。それが夫は特に気に入っていたようだ。

(2)保育園から小学校入学
 娘はこの町で生まれて、町で母子手帳を貰い、保育園から中学までこの町で育った。小さな町、おまけに末っ子のおかげで、お兄ちゃんたちを知っている人達が多く、すんなりと集団に馴染んでいったかに見えた。
 しかし、親の私は内心ハラハラしながら娘の様子を見ていた。
 3歳で入園して、5歳の時、保育園で「ちょっと気になることが立て続けに起こったので・・・。」と報告された私は、すぐさま発達障害者支援センターに電話で相談をした。当時はまだ、支援センターも小規模で利用している人が比較的少なかったし、私は上の子で利用経験があったから話も早かった。すぐに子どもクリニックの予約を取ることができて、5歳の段階で小児精神科医の診察を受けることになった。まだ、一般には発達障害と知的障害を混同する人が多かった時期のことで、保育園の方としては親の強硬な反発を心配していたらしい。私にしてみたら、ちょっとでも早く不安要素は減らしたい気持ちだったから、全く抵抗感はなかった。むしろ、対処が遅くなることで本人がつらさを抱えて自尊感情が低下することのほうが、数倍恐ろしかった。

 5歳の時点での娘の診断は、自閉症の特徴が1つか2つある「特定不能の広汎性発達障害」の疑いだったが、低年齢では簡単な検査しかできないため確定的な診断は難しいとのことで、定期的に発達障害者支援センターに通うようにとの勧めを受けた。まず、保育園に相談支援員が出向いて特性や注意点の説明などをしてもらい、娘は保育園に通いながら、4~6週間おきに支援センターに通ってSSTなどのトレーニングを受け、私は母児同時並行面接を受けた。小学校入学後も通所や、相談支援員と学校の特別支援コーディネーターとの連携は良く、小学校の間は大きな問題もなく6年生まで過ごすことができた。学校が小規模校で、1学年1クラス10人未満の小さな集団だったことも目が届きやすくて良かったのかもしれない。
 しかし、順調だった学校生活は中学に入学する間際から、段々と心配な様子が表れてきた。しかも、その原因は娘ではなく学校側の体制の変化がきっかけだった。


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