ブッタと西洋哲学

世界的自己啓発本の金字塔である「七つの習慣」、耳にしたことがある人や読んだことがある人も多いのではないか。小さなコンビニの本棚なんか、新しいん本ですぐにとってかわられそうなのに、いつまでも置いてある。その中で外的と内的な影響には違いがあると言っていた。どういうことかというと、私たちは日々の言語の中で〇〇があったからイラついた、などというように対外的な影響が、直積的に私たちの内的感情に影響を与えると認識している。しかし著者のデイヴィッド・コナーによると、その二つには厚い皮膚のように隔たりがあり、その隔たりがあるからこそ外的影響は我々の感情に直接結びつくわけではないといい、選択の余地があるという。自己啓発はどうも胡散臭いものであるので、ドイツ強制収容所を体験し、「夜と霧」という体験記を書いた精神科医V.E.フランクルの言葉を借りよう。「あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である」。

しかし、そのふたつが別々だとして、自分が外的要因で怒ったり、沈んでいると、それは精神力が弱いのかという事でもない。だというのに、アメリカンドリーム的な、あくなき資本主義社会を象徴するような、個人のがんばり次第でなんでも成し遂げられる精神では、目的が達成できなければそれは個人の問題だということになる。実は外的原因と内的結果を切りけるためには、デイヴィッド・コナーの理論では少々言葉足らずなところがある。人間は、スタートレックに出てくるヴァルカン人と違い感情というものにどうしても左右される。従って、感情的な人間の側面も受容していかなくてはならない。禅的な感性では、我々は生物の反応としての瞬間的な感情をコントロールすることはできない。感情がコントロールできないものと受け入れると、最終的にunwantedな感情に執着せず、自己を非難することもなくなる。何事も反発すればするほどに、その事象に対して執着をしてしまう。出来ることは、執着をなくすことでよりベターな精神衛生を手に入れることだ。禅的には何事にも執着してはいけないため、感情の選別をすることも本来(してはいけないのではなく)するものではないのだが、ブッタも世俗に生きる人が完全に禅に生きることが出来ないことを言及している。

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