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下流に見える、煌めく6年間(卒業式前の母の葛藤)

いよいよ明日は卒業式。
どうして人は、時に引きずられるんだろう…ちょっと待って、と心が叫ぶ。

でも、まてよ。卒業式は向こうからやって来ただけなのかもしれない。

私たちは川の中流にいて、目の前にある魚を必死にとりつつ、上流にある何かが流れてくるのを待っている存在なのかもしれない。

卒業式が流れてくる。
もうそこまできている。

卒業式とすれ違う瞬間、それは、感謝や感動、喜び、悲しみに溢れる瞬間。ほんのひととき。でも一生胸に刻まれる瞬間。

いつのまにか、息子と私の6年間は川の下流へ。

でも下流の方で煌めいている。

望む望まざるに関係なく、時は流れる。
毎日毎日の繰り返しで、その貴重さが見えなくなる。
手の中の魚のように、近くにあってありふれたものと思ってしまう。
でもかけがえのない時間だったことに気づく。

噛み締めよう、噛み締めようとしても、固かったするめだって、咀嚼しているうちに、いつかは飲み込んで、消化されてしまうもの。

血肉になる。

・・そうか、私たちは失うんじゃない。
いつの間にか、思い出は血肉になっている。

6年間の思い出は、息子や私のなかにある。
失っていない。
記憶が少しだけアホなだけだ。忘れちゃうから。でもどこかにしまってあるよ。


本当は、1年生のときは・・なんて振り返ろうと思ったんだけれど、なぜだかこんな話になってしまった。
まだ1年生、2年生・・と振り返ったわけじゃないのに、書きながらちょっとうるうるしている自分がいる。
泣きたくないのになぁ。

・・ん?これって卒業式は泣くもの、卒業式は感動するもの、という思い込みのせいでは?
子どもの成長に感動して親は泣くもの、という思い込みのせいでは?
それとも、感動するって人類にデフォルトでついているものなの?

ああ、まだ明日をどんな気持ちで迎えていいのか、わからない。


とりあえず、明日息子が着る、中学校の制服の裾上げをしなければ。

目の前にとるべき魚はたくさんいる。


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