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自己からの逃走—その土壌

自分の周辺のもの・こと、こだわることすべてに自分の血を通わせたい。

ここ数年は、サルトルやヘーゲル的な自由を重んじる者だった...。


遡ると、私は、2000年代の総合的な学習の時間を取り入れた時期に公立の学校にいた。個性を伸ばせと推奨された一方で、校内では、「気をつけ・礼・着席」が何度も叫ばれ、従ってきた世代である。すでに様々な人に論じられてきたかもしれないが、ダブルバインドのもとに、どこかシラけて生きてきた世代だ。

このような環境で自由意志を取り入れた人はどれほどいたのかしら?

現在もほぼ同様だろうが、自由意志、自分の頭で考える人をつくるには公共機関には頼れない。

私の場合、教養のある家庭に生まれたのではないため、「洗脳」とか「教育」などに、特別気をつけて生きてきた人間ではなかった。ただ、どこか学校というものには距離感を持っていた。友達とたくさん遊ぶなど、はっきりした楽しさも追求しなかった。しかし、読書・勉強も好きではない。ただ、流行とはまったく関係のない、強烈に個人的に好きなものはあった、というような人間だった。

——上記のような人間が、あるとき文学部に入り、読書に目覚めた...。

内面の大きな変化があったのは、ここからと、明確な境界線を引けるわけではないが、19才くらいからの読書の積み重ねによるものだと思っている。

初期に好きだったのは三島由紀夫なのだが、働き始めてからは、日本近代史、(いわゆる)世界史、哲学、社会学、政治学などを濫読したことで、内面の変化は加速されたと考える。(何よりも、興味が尽きない...)

ここから、軸となる考え(先人の考え方)や、〇〇主義(イデオロギー)が重要になってきたように思える。

わかったようなことを言うが、人文学系は少し学ぶと、それを日常生活(社会生活)にも実際にあてはめて考えることができるため、生きるのが少し楽しくなる。ある光景を見て、本で知った似た事例をあてはめ(演繹)、それを軸にして現状を分析できるからだ。物事を紐解いていく助けに使える。

このような流れで、18世紀の人のように(?)、理性を重んじる人となった。

だから、(それほど理屈は精密ではないにしても)デカルトを疑わない人だった。すなわち、主体を信じきっていた。

「自己」というものは、信じられるもの。学びや経験から判断し、行動して切り開けるもの。そう思えたのが、きっとうれしすぎたのだろう。ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」のシリーズ的と言っていいのか、教養小説のような世界観で生きていた。

(運や遺伝の要素も意識はしていたけれど)

一方で、ぼんやり生きることへの非難。自分がそうだったから、それへの否定的な考えは倍増していた。

まあ、やんわりしてはいるが、個人的に「近代」の感じがあった(起こった)といえるのではないか。

このような内面の変化は、過剰なものを自分のなかで持ちつつも、人生の半分を成り行きで生きてきた人の反動によるものだと思っている。


〈似た話題の図書〉

● 福田恆存『人間・この劇的なるもの』

● ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

● エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』


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