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映画レビュー『ドライブ・マイ・カー』私とは他者に対し無限の責任を負う者である

2021年8月20日公開

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
原作:村上春樹

キャスト
家福悠介:西島秀俊
渡利みさき:三浦透子
家福音:霧島れいか
高槻耕史:岡田将生
イ・ユナ:パク・ユリム
コン・ユンス:ジン・デヨン
ジャニス・チャン:ソニア・ユアン
ペリー・ディゾン
アン・フィテ
柚原:安部聡子


本来的に量り知れない存在であるのが他者。
音の裏切りや高槻の暴力性。

家福が作る舞台が多言語であることは、
同じ言語で会話することによってその場に漂う"相互理解ができ得る"という前提を排除するための仕掛けのように感じた。

ソーニャ役がそもそも言葉を発せない(のに一番染みてる気がする)というのも、練習段階で本読みに感情を入れないことも、他者と心を通わせることの難しさを表しているよう。

そもそも自分自身についてだってよく分からない。
分からない他者と分からない自分との関係から成る世界の中で、一体自分はどんな形をしているのか、
一体どこまでが自分でハンドルを握っているのか、
家福の愛車はそんな自己認識の象徴だと思った。
(他人の運転に違和感を感じる)

音や高槻やみさきにとっては、
罪の痛みとそれに対する責を負う(「私がやりました」)ことだけが、自分を認識する術のようだった。

相手への愛が本当だったとしても、
他者と結婚するということはある意味で互いの得体の知れなさに対する侵犯なので、
音の語りにおける"女子高生"と"後からきた空き巣"の関係と重なる。

自分の欲望とは相容れないし、欲望を解放したために傷つけてしまったのが空き巣であり夫の家福。
「私がやりました」と伝えたい相手であるヤマガもまた家福であり、他者であり、世界。

一方で家福は、痛みの自覚を避けていた。
ワーニャを演じることを放棄し、音との話合いを先延ばしした。

高槻から音の話の続きを聞いたり、
自分の車(人生)になぜか違和感なく相乗りすることができたみさき(亡くした子供、ソーニャと重なる存在)と痛みを開示し合うことによって、
家福はやっと自分の責を感じることができた。

音と高槻は責を負うことを目指して終わったが、
家福とみさきは痛みと責を引き受けた上で他者と同乗する人生に希望を見出しつつあるようにみえた。
他者と関わりあいながら、傷つきながら、それでも生きていくこと。
ソーニャのワーニャ(家福)に向けた最後のセリフもそれを示していた。

映画の終わりでは、
みさきの痛みと責の象徴である"目立たされた頬の傷"は少し薄れ、
家福と同じ車種の"マイカー"とユンス&ユナ家の(に似た)"犬"と共に、縁のなかった土地で自立して生活していた。

"素敵だな"と思えた他者の一部と共に進むことで、
他者と関わり合いながら、傷つきながら、それでも生きる、そこにも希望があるかもしれない、ということを表したシーンだと思った。

外国語作品だったらもっと素直に感動できたのかもしれない。

書いていてレヴィナスの他者論を思い出した。以下wikipediaより引用。

他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である[7]。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある[8]。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる[8]。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる[8]。

あるいは、「無限の責任を課す他者」こそが「他者」だと言う[16]。「私」(自己)とは、「他者に対し無限の責任を負う」者であり、「私」と「他者」は非対称で不公平な関係にある[17]。

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