見出し画像

フレディ・マーキュリーの死から31年

昨年だったか、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を鑑賞して、当時を知らない僕には何かと衝撃だった。

車を売ってレコーディング代に充て、かと言ってセオリーを知らない者たちはレコーディングの手段も斬新で。

セオリーに沿わないものはだいたい評価されない、今の時代は特にそれを感じることも多いが、彼らがそこで作り上げた楽曲は大ヒットした。

「ライブ・エイド」は、映画を観終えてすぐに本物の映像を観た。

いかに映画内のライブ・エイドがオリジナルを忠実に再現しているか、細かいこだわりまで見えて、感動した。

そして当然、本物の映像のほうが現場の緊張感のようなものがひしひしと伝わってくる。

それはライブを楽しんでいる観客や、パフォーマンスに慣れているメンバーを除いた、周辺のスタッフの表情・目線を見ているとよく分かってしまう。


映画版では、クイーンのライブ・エイド出演後に寄付の電話が鳴り止まずパンク状態だったシーンに涙が止まらなかった。

それは15億人もの人々が同時に視聴し、文化も思想も違うはずの世界中の人々の心を同じ感情へ導き、エチオピアを助けようと電話を掛ける、「音楽が人を動かす瞬間」が強く表現されていたからだ。

伝説的な話を聞く度に、その時代を生きてみたかったと思う。

ロンドンの自宅に日本庭園を作ったり、日本の家具を入手したり、フレディというスターがそれを楽しんでいたんだとしたら、日本というこの国が誇らしく感じられる。

「僕が死んで、誰が気にする?」と飄々と語る生前のフレディと、フレディの死後5年は呆然としていたという残されたメンバーたちとのギャップがいかにも人間らしい。

ボヘミアン・ラプソディのバラードゾーン、フレディによる有名なピアノ演奏、僕も少し弾けるが、思っている以上に音階の幅が広く、左手で高い鍵盤に手を伸ばすと身体が右に傾いてしまい、フレディのように軽々と弾きこなすことはできない。

フレディとは同じ時代を生きていないし、会ったことも当然ないが、ピアノを介して、フレディは体格もケタ違いなのを僕は知っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?