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【短編小説】100円で温めて #1

とある小さな事務所、時刻は19時を過ぎている。

社長も先輩も帰ってしまい、残っているのは私……と外回りをしているもう一人の先輩。そろそろ戻ってくるはずだ。机上の書類をまとめながらぼんやりパソコンを眺めていると、静かに扉が開いた。

「…戻りました」

柔らかな口調、低く優しい声だ。

アウターの襟元をぐっと掴みながら部屋に入り、寒そうにしながら椅子に腰かける。持っていた鞄を置き、暖房の効いた室内に入ったせいで真っ白に曇った丸眼鏡のレンズを拭く。動きの一つ一つに無駄がない、彼は動作はいつも静かだった。

「外、雪降ってましたか?」
「うん、細かいのが降ってる、風も強くて凍っちゃいそうだったよ」
「三條さん寒がりですもんね」

冷えきった色白な顔に、少しずつ血色が戻り始める。

「コーヒー、淹れますか?」
「いや、今日はもう帰るよ、そちらは?」
「私も一段落したところです、今日はもうおしまいですね」

パソコンの横に転がっているペンや書き散らしたメモを片付ける。三條さんも鞄から茶封筒やファイルを取り出して机に置き、首にかけていた社員証も外した。ブラインドを下ろし、部屋の空調を切る。

帰り支度があらかた済んだ頃、三條さんがおもむろに上着の内ポケットからコインケースを取り出した。濃い緑色のレザーでできたそれは、何年も何年も使い込んでいるようで、持ち主の深い愛着が感じられる。

彼はその中から100円玉を取り出すと「白田さん、温めて」と小さく呟き、こちらにそっと差し出した。

私もタイミング的にそうではないかと予想していた。室内には私達だけ。

「いいですよ」と言ってゆっくり彼の横に近づく。真横まできた私を、三條さんは席に座ったまま抱きしめた。私も三條さんの頭を優しく撫でる。

これが彼の言う"あたため"である。私達の関係は職場の先輩と後輩、決して恋人同士ではない。

去年の4月から私はこの事務所に勤め始めた。主な業務は市内での音楽スタジオの営業やイベントの企画運営で、代表取締役社長、総務経理担当の先輩、営業企画の三條さん、そして新人社員の私の4人で回している。

私の担当も三條さんと同じく一応企画運営だが、何せ人数が少ない職場、新人ということもあり外回りから事務作業、資料作成、雑用までこなす何でも屋さん的ポジションになりつつある。

もともと裏方に徹するのが好きなタイプで雑用係も嫌いじゃなかった。社長としては、ゆくゆくは三條さんと並ぶ営業企画の顔としたいらしいが、表舞台に立つのは性に合わないので、できることならずっと裏方がいいなぁと思いながら日々働いている。

三條さんは私のOJT係がやってくれていて、忙しい業務の合間を縫って仕事の進め方や営業先の回り方などを丁寧に教えてくれた。

彼はいつもどこか「ふわふわ」した人で、話し方はとても穏やかだし、性格も超がつくほどおっとりしていて、せっかちの対局にいるような感じだった。むしろおっとりし過ぎて心ここにあらず、というか、心が空気中を漂っていると言った方が適切と思われる時すらある。

さらに、仕事に関してはきちんと自分の意見を明確に伝えてくれるのに、自身の感情は全く表に出さない。喜怒哀楽が全く分からずつかみどころもない。入社したばかりの頃は、三條さんがAIロボットのように見えて仕方がなかった。

後々になって、「彼はそういうタイプの人なのよ、悪気はないから嫌いにならないであげてね」と先輩に助言され、自分の中でも割りきって接することが出来るようになった。

#2に続きます。


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