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【短編小説】100円で温めて #3

#1 はこちら

年度が変わり、ようやくこの街にも桜の便りが届いた4月の終わり。

春の香りを含んだ風は暖かな陽気を運んでくるが、日が暮れる頃にはその温もりも消えてしまう。昼夜の寒暖差にまだ身体が慣れない中、私は新しいイベントの担当に抜擢された。

これまで前例がない新たな企画を行うことになったのだが、パソコンの画面を前に「企画書がまとまらない…」と頭を抱えていた。

これまでの業者とのやり取りメモ、見積書、先輩が作成した資料を机に並べ、一人でうんうん唸っていた矢先、三條さんに声をかけられた。

「新しい企画書、大丈夫?間に合いそう?」
「早くも積んでます、全体のタイムテーブルと会場レイアウトが上手くまとまらなくて…」

思い返せば、さながら夏休み最終日に宿題が終わらない小学生のような表情だっただろう。

「大丈夫大丈夫、一緒にやろう」いつも通り柔らかな笑顔を見せながら、じゃあその資料ちょっと見せてね、と私の殴り書きでいっぱいになったノートをじっくりと眺めた。

そして、ゆっくりと、でも一字一字確かめるようにしながら三條さんは企画書を打ち込んでいった。

ああ、企画書もロクに作れないなんて。自分の不甲斐なさに泣きそうになる。

表情を見られたくなくて俯いた時、目の前に差し出されたのは某高級店のチョコレート。驚いて顔を上げる。

「今日営業先でもらったんだけど、僕甘いの得意じゃないからさ。白田さん、今日ずっと頑張ってたから少し休憩しないと頭がパンクしちゃうよ」

ほら食べて食べて、と促され、その心遣いにまた涙腺が緩みそうになる。口に運ぶと少しビターな甘さで満たされ、不甲斐なさと焦りと空腹で働かなくなった頭をリセットするのに、チョコレート以上に最適な食べ物はないと思った。

時計を見ればもう18時半を過ぎている。お昼過ぎからかれこれ数時間、まともに休まずこの企画書と格闘していたことになる。そりゃあ頭も動かなくなる訳だ。

少し落ち着きを取り戻したのを察したのか、三條さんがまた声をかけた。

「この資料を基にちょっとまとめてみたんだけど、少し確認してもらってもいいかな」画面の中を覗くと、先ほどまで混沌としていた企画書に秩序が生まれていた。内容は細かく整理され、ところどころ黄色いマーカーが引かれている。

「この黄色いとこ、多分今すぐには判断できないところだと思うんだよね。明日会場のオーナーさんと相談してから決めていいと思うよ」
「あ…確かにそうですね」
「うん、だからね、今日できる部分はもう全部完成してるよ、企画書全体のもう8割方できてるって感じじゃないかな?」

もうここまで終わらせたなんてすごいよ、といつもよりトーンの高い声で労ってくれた。

でも、書いてくれたのは三條さんだから私は何も…と呟くと、「いや、データを揃えてくれたのは白田さんだよ。僕はそれを項目ごとに整理しただけ。文書にまとめる作業って慣れだからさ、白田さん要領が良いからすぐ書けるようになるって」と優しい言葉をかけられ、いつぞや三條さんをAIロボットのようだと思った自分を呪った。

表に現れないだけで、三條さんには血の通った優しい心が、人間らしい心が確かに備わっている。

当然の事実を密かに確かめながら三條さんにお礼を言うと、「僕こそ何もしてないよ」と笑い、今日はもう帰ろうと返事が返ってきた。

社長は昨日から出張に出ていて不在、もう一人の先輩は有給休暇、事務所には2人しか残っていない。

帰り支度を始めたとき、窓ガラスが濡れているのに気づいた。途端に春の夜の肌寒さを感じ始める。

せっかく桜が咲いたのに、雨に打たれてはすぐに散ってしまうではないか。流れる雨水を恨めしく思いながら見つめていた時、聞き覚えのある言葉をかけられ、あの冬の夜の記憶が蘇った。

「あの、白田さん、温めてもらえませんか」

#4に続きます。


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