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【短編小説】100円で温めて #5

#1 はこちら



葉桜になり、梅雨が明け、お盆を迎え、街が紅葉し、道端に霜が降りる。

私たちの100円玉とハグによる儀式は、変わらず続いていた。日付も曜日も時間もバラバラ、ただひとつ決まっていたのは、2人だけのタイミングがある時、ということだけであった。

最初の頃こそ「何故?」という疑問が頭に張り付いていたものの、近頃になってはそれを問いただすのは野暮な気がしてきて考えるのを辞めていた。

加えて、三條さんの腕の中が心地よかったというのもあるだろう。

自宅に置いていた小物入れの貯金は増え、今やフタを開けただけでは全ての硬貨を数えられないほどになっていた。

年の瀬が近づいた12月後半。時刻は19時を過ぎ、窓の外はすっかり日が落ちてしまっている。

今は社長も先輩も不在、三條さんは午前中から外出していて事務所には私一人だが、そろそろ戻ってくるだろう。きっと今日、あの儀式がある。心なしかそれを楽しみにしている自分がいる。

机上の書類をまとめながらぼんやりパソコンを眺めていると、静かに扉が開いた。

「…戻りました」

柔らかな口調、低く優しい声だ。その声を聞いて、密かに心踊る自分がいる。

一言二言言葉を交わし、三條さんと一緒に帰り支度を始める。タイミングを見計らったように三條さんがいつものコインケースを取り出す。差し出された100円玉。三條さんは席に座ったまま抱きしめた。私も三條さんの頭を優しく撫でる。

私達の関係は職場の先輩と後輩、決して恋人同士ではない。






いつもなら、ここでおしまい。しかし、今日は違っていた。


三條さんがなかなか解放してくれない。心なしか、いつもより抱きしめる腕が強い気がする。

「……何かあったんですか」

私のお腹に顔をうずめる三條さんに恐る恐る尋ねると、「ずっと黙ってたことがあるんだけどね」と前置きをした後、三條さんはゆっくり話し始めた。

「実はね、遠距離恋愛してる彼女がいるんだ。2年前くらいから付き合ってるんだけど、彼女、結構気の強い性格でさ。最初は良かったんだけど、言葉もキツいしすぐに機嫌悪くなるし、段々会うのが億劫になっちゃって、最近だと会うのも月イチあるかないか、みたいな。連絡もほとんど取ってないから絶縁に近い感じで。白田さんと一緒にいる時間の方がよっぽど長くて、あぁ、あの人が白田さんみたいに穏やかになってくれれば良いのにって考えてるうちに、気付いたら白田さんに惹かれてた。どうせ彼女は遠く離れた場所にいるし、なんならこのまま自然消滅してしまいたいって思ってて。でも完全には割りきれなくて、100円渡して構ってもらうなんて最低なことしてた。人として終わってるよね。だけど、何も聞かず受け入れてくれる白田さんに甘えてさ、100円は一線を越えないための免罪符だって自分に言い聞かせてさ。都合よすぎるよね…ごめんね、ほんと、ごめん」

「先輩との職場内恋愛」「フリーに近いとは言え彼女持ちの人」「浮気」まるで現実味のない、フィクションのようなシチュエーション。

でも、私が一番驚いたのは、三條さんが身の上話をしてくれたことでも、三條さんに彼女がいた事実でもなく、私自身の口から出てきた言葉だった。

「越えてもいいですよ、一線。私の他に100円で温めてくれる人がいなければの話ですけど」

なんて小賢しい、生意気な言葉だろうか。

三條さんがこちらを見上げる。その顔を直視できなかった。

私がこんなことを口走る日が来るなんて。

今の話が全部彼の嘘だったらどうするのか、相手の口車に乗せられ都合よく使われるだけの存在にされるのではないか。黒い猜疑心が浮かんでも、その思いは発した言葉に反映されなかった。

三條さんは「ありがとね」と小さく呟き、立ち上がって全身で私を抱きしめた。その声はほんの少しだけ震えているように聞こえた。

初めてハグをしたあの日、三條さんはとても寒そうだった。それはきっと物理的な寒さだけでなく、心も冷えきってしまっていたせいなのかもしれない。

今の三條さんはとても温かい。その体温を感じながら、私はこれまで受け取ってきた100円玉の最も幸せな使い道は何か考え始めていた。

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