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言葉を知ること

なんかうまくまとまらないので載せるか迷ったけれど、せっかくここまで書いたので載せます。自戒です。

久しぶりにボロネーゼを作る。3年くらい前にイタリア料理にハマり、自分で言うのもなんですが、だいぶだいぶ美味しいパスタなどのイタリアンを作れるようになった。料理は片付けが億劫だが、疲れているのに何か拵えようと思えたこと自体が上出来。できたてはあまり美味しくなかったので、塩と胡椒とチーズを足したら、別物のように美味しくなった。多分塩加減で大体の料理は美味しくなる。と思う。

言葉を知ることは自分を守ることにつながる。

私の文章は文法がめちゃくちゃで、しかもそれをあまり直そうともしない。文章が上手な人は「だいぶだいぶ」という副詞は使わない。流行りの言葉が既存の正しい言葉をぶっ壊していく様を目の当たりにしても不快感はない。
が、最近、文章が上手なことよりも文脈を理解する力の方がよっぽど大事なのではと思った。というかそもそも文章作成に上手下手もないと思っている。ただ、文脈を読み取る力というのは確実にあるなと思う。文脈を読み取る力は、自分の気持ちを素直に表現できることと比例するのではないかと思う。

近所の洋菓子屋に、職場体験に連れてこられたと思われる小学生の感想文がずらりと掲示されていた。
概して、結びに
「〜だと思いました」
「楽しかったです」
と書かれているものが多い。
これは、身に覚えがあるのだが、夏休みの日記などで特に書くことがない時「楽しかったです」と結べば、何の問題も起きずに教師から○をつけられる。で、結のない文章や文字数の少ない文章は、△以下となる。まあここから大体、文章は死んでいき、つまらなくなる。文章に上手下手もないが、魅力的か否かというのはある。上記の小学生の感想文で、個人的に「好き」だと思ったのは、結びが以下の言葉でまとまっている、もしくは一言で終わっているもの。
例えば、
「美味しそうなので食べたかった」
「良い匂いがした」
「お腹が減った」

美味しそうなケーキが数多に並ぶ洋菓子屋での気持ちが粉飾なく書かれている。逆に「ありがとうございました」など本来は教師がすべき店への謝礼を代弁するような感想文は少し心配する。感想に見せかけて全く感想ではない。優等生と思しき子が本心からそう思っていると良いのだが、おそらくそんなことはない。頭の良い子ほど、評価される文章作成術を身につけていく。そして自分の言葉を抑えて殺していく。

仕事がきついと感じるのは、自分の言葉を使ってないからだと、ふと思うようになった。私がこの優等生の「ありがとうございました」に嫌悪感を抱くのは、それは今、私の中にも使いたくない言葉を使っているという実感や体験が澱のように溜まっているからだ。自分の言葉を使える環境に身を置くことができれば、結構本望なのかもしれない。それか、言葉を全く使わない仕事をするか。でもそんなことできるか?結構本気で迷っている。自分の言葉さえ知っていれば自分の世界が自ずと拡がるのだとしたら、今それを一番やりたい。労働はやりたくない。

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