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介護は32歳のとき、舅78歳から始まった…。

長かった母の介護生活18年が、記憶に新しいため忘れていた。
もっと、壮絶なことが起きていたことを。
時系列で追ってみよう。

舅の介護の始まりは、狂気に満ちていた!

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26歳で嫁ぎ翌年生まれた長男を、舅は「やっと内孫ができた!」と、とても喜んでくれた。なぜなら、夫は10人兄弟の7番目の跡取りだったからだ。

次男が1歳3ヶ月、舅は持病が悪化し入退院を繰り返すように。
舅の体には大きな手術跡が背中から腹部に横断していた。

舅はまともに立てなくなり、おむつを小さい次男用と大きな舅用を
急いで2つ買ったあるとき、薬局のおじさんに「若いのに大変だね」と、
同情されたのを今でも思い出す。

そんなあるとき、長男5歳が「じいちゃんが、僕にバナナを投げた!」
と泣き出し…。行ってみると、舅の目の色が変わっていた。
あんなに可愛がっていた孫が差し出したバナナを、孫に向かって投げ返したらしい…。認知症の始まりだった。

それから何日もしない夜、夫は翌日の仕事が早いからと早めに寝室に。
子供たちは私が家事を終えるまで、2人一緒にこたつの脇に並べて寝かせていた。と、その時「ギャッ!!」っと、鈍い声…。

ただならぬ気配に、音のするキッチンへ行ってみると…
そこには歩けるはずのない舅が、刺身包丁を姑の首元へ当てていたのだ。
咄嗟に夫を呼ぶも、2階の奥の部屋には声が届くはずもなく、
それよりもなによりも、子供たちに包丁を向けられることが頭をよぎり、
必死に舅に飛び掛かり、包丁を持っている手を持ち、もう片方の手で
思いっ切り舅の手をつねった。包丁は音を立てて、床に落ちた。

包丁を拾い上げ、ガタガタ体が震えた…
姑も子供たちも助かった…

すぐに夫と夫の兄弟たちが集まり、舅を入院させることに。
翌日、舅は亡くなった。
最後の力を振り絞り立ち上がり、妻を連れていきたかったのか
認知症の恐ろしさを、まざまざと見せつけられた。

母の介護の始まりは、突然に!

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長男は高校2年生、次男は中1になっていた。
次男の中学の入学式の帰りに実家に寄り、孫と一緒に撮った写真が
母の元気な最後の写真になった。

その1週間後に、母は脳卒中で倒れた。左半身の片麻痺が残り
リハビリが始まったが、幸い頭はしっかりしていてしゃべることができた。

長男の学校と近い病院だったので、朝早くに長男を連れて母のリハビリに
付き添うことに。その時の様子を見て、長男は理学療法士の道を目指した。
私はヘルパーの資格を取り、とにかく歩かせたい一心だった。

結局、装具を付け少しは歩けるようにはなるも、一人では歩かせられ
なかった。車椅子を一人で乗り降りすらできなかったのだ。

その間に、一人取り残された父も肺炎から認知症に。
次の年には、姉が乳癌で手術を受けた。

このことは別のnoteに詳細があるので、ご参考に。


父の介護の始まりは、一人取り残されて!

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父が肺炎になり入院し、父の付き添いもすることに。
その間に認知症になった父は、娘の私のことを忘れてしまい
「変な女が俺の所へきて、引き出しを開けている」と。
娘3姉妹の上下を思い出しても、真ん中の私のことは思い出せなかった。
私が一番介護をしているのに…。

ただ父は同じ認知症でも、舅のように凶暴になることはなく、
思い出せないことが多くなっても、いつもニコニコしていた。
性格はいつも穏やかで全く変わらず、それだけが救いだった。

父も足腰が悪く車椅子状態に認知症、要介護3状態でとても自宅で
看られる状態になく、母と同じ施設へ入所。

週に2、3回施設に、2人の洗濯物を取りに訪問。3ヵ月毎に自宅へ戻る
施設の設定に、乳癌を患った姉に任せられず、遠くへ嫁いだ妹も難しく
ヘルパー資格がある私が実家に泊まり込み看ることに。車椅子の2人に昼夜問わずのおむつ交換や食事の世話、24時間体制で3日間続けて施設に戻す。

こんな状態が、父には12年間続いた。寝たきり状態が続き、もう危ないとき
には入院。このときも泊まり込み、最後を看取ったのも私だった。

もう何もしゃべることができず、酸素吸入のまま私のほうを向き、
何か言いたそうだった。最後の最後に思い出してくれたのか、
私に「ありがとう」と声にならない声で目を閉じた。父にすがり
「私こそ、ありがとう」、父の閉じられた目から涙が一筋流れた。

姑の介護の始まりは、胃癌の発症から!

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姑はとにかくきれいに整理整頓、野菜作りも立派で、ズボラな嫁の私は、
何もかなうものがなかった。私が姑よりできるのは車の運転ぐらいだった。
仕事が忙しい私に代わり、孫2人も見てくれて感謝しかない。

そんな姑が不調を訴えたのは、長男は理学療法士の学校4年目、
次男は高校3年生になっていた。私の仕事の休みを待っていたのだろう。
「胃が痛いから、病院に連れて行ってほしい…」だった。

個人病院で撮ったレントゲン写真は、素人の私でも分かるほどだった。
「胃の中に色の悪いコブが…これは、ただ事ではない!」

案の定、大きな病院を勧められ『胃癌』が確定した。87歳という高齢でも、手術は決行された。開けてみると、癌は胃袋を突き破り膵臓まで達していた。ステージ4だったが、胃袋全摘と周りの癌も取り切れたと。

退院後は、通院の付き添いと胃が無くなった姑の食事作りが始まった。
仕事で帰宅の遅い私は、朝だけ一緒に食べて、昼食と夕食の分を作り
冷蔵庫に入れて出勤。始めは、ミキサーで流動食にしていたが、
とても色が悪く「これでは、食が進まないだろう」と柔らかく柔らかく
煮込み形を残すことに。当然時間がかかった。

次の年に姑は88歳になるため、米寿のお祝いを思い立った。
子ども、孫、ひ孫まで入れて夏にやろうということに。
大手術をして痩せてしまった姑だったが、みんな揃って姑を囲むことは
あと何回もないだろうとも思い、私が率先して計画を立てたのだ。

あの時は総勢27名が集まり、姑を孫たちが囲み写真を撮った。
だが、あの嬉しそうな姑の写真が、最後の写真になってしまった。

その秋にいつもの通院で、お医者さんに私だけ呼ばれ、姑の腹部の写真を
見せられた。「ここに癌の再発が…。年を越せないかもしれません。
好きなことをさせてください」その写真を見ながら、はらはらと涙がこぼれ落ちた。先生が優しく肩に手を置いてくれたのを覚えている。

いつまでも泣いているわけにいかず、廊下で姑が待っていた。泣いていた
ことを悟られないようにするのが大変だった。帰りの姑を乗せて走らせる
車は、余命宣告をされた姑のこと、夫の兄弟たちに告げることで頭がいっぱいでどのように運転したのか、気がついたら自宅の前だった。

1ヶ月、2ヶ月、最後の時が近づいてきていると察し、夜は同じ部屋で寝ることに。痛み止めの薬も効かなくなり、トイレに行くのも大変そうだった。簡易トイレを部屋に用意するも嫌がり、抱きかかえてトイレに連れて行った。「痩せてこんなに軽くなってしまうなんて…もう家では看られない…」

姑の入院に、日中は義姉がついてくれた。夜は私と夫が泊まり込んだ。
2人とも病院から仕事へ出勤、仕事終了後に一旦自宅に戻り病院へ。
こんな状態に他の義姉もついてくれるようになり、一晩自宅のベッドで寝たことがあった。翌朝病院に行ったら「待っていた、おかあさん(私のこと)を待っていた」と泣かれてしまった。
 
実の娘より嫁の私を待っていてくれたのだ。もう誰にも頼めない…。
寝不足で仕事にもミスを連発。朝の先生の回診に、姑のベッドの柵に頭を
伏して眠っていたら、姑より先に「大丈夫ですか?」と声を掛けられる
あり様だった。

姑の昏睡状態から黄疸が始まり、夫の兄弟たちが続々駆けつけたので
一旦自宅に戻ることに。姑の下着を洗濯していると1本の電話。
姑が亡くなったと…。看取れなかった…
泣いている間もなく葬式の準備、寝不足のまま葬式突入。
本当に泣けたのは夫の兄弟たちが皆帰った1週間も後だった。


介護の終わりの母は、一人静かに

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母は脳梗塞を繰り返し、頭はしっかりしているものの、上手く話せなく
なっていた。ろれつが回らず、こちらの方が察して理解するという形
だった。それでも何とか意思疎通はできていた。

姑の介護に入るときも、「もうしばらく来られないからね」
母は病床にありながらも、一度もわがままを言ったことがなく、
私の、嫁の立場を真っ先に理解してくれた。

息子が理学療法士に晴れてなれた時には、真っ先に報告。
孫の結婚の報告とひ孫を見せてあげることができた。

私が膝を痛め手術を間近に控えた時に、母が長くないことが分かった。
「お願いだから、私が戻ってくるまで待っていて!」祈るばかりだった。

退院してきてすぐに行った時には、体中が痛そうで顔をゆがめていた。
「また来るからね」と言いながら「もうこれで最後になるかもしれない」
頭をよぎった。 やはり、それが最後だった。

母が亡くなったのは、私の誕生日の2日前だった。私が手術から戻るのを
待って、誕生日を命日にしないよう、気遣ってくれたのだろう。
施設からの電話は「行ってみたら息をしていません」だったと。
一人で逝ってしまったけど、眠るように亡くなったと思いたい。

介護のまとめ

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壮絶な4人の介護は終わった。
結婚して忙しい仕事とともにあったのが、この4人の介護だった。
舅の包丁を振り回す認知症から始まり、片麻痺になった母の長い闘病生活。
避けては通れない親のこと、今度は自分が親の立場でこの4人のどれに当てはまるのか、思う時がある。

誰しも「自分はそうならない、なりたくない」と言ったり、挙句の果てには
「そんなふうになったら殺してくれ」と言ったりする。

私は最悪こういうことを想定して、エンディングノートを作成しようと思っている。2世帯同居の息子は理学療法士で嫁は看護師のため、周りからは
「老後は安泰だね」とよく言われるが、この息子たちに世話になるのは、
最小限にしたいと思う。

そのために自立した老人になるにはどうしたら良いか?
考えたときに真っ先に浮かんだのが、Webライティングだった。

認知症予防に脳を鍛えられる、Webライティング
足腰が弱くなっても働ける、Webライティング
出向かなくても交流できる、Webライティング

第二の人生には、Webライティングが打って付けなのだ!


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