【創作】ねこと牛
あるところに青年がいた。
彼は小学校から中学校、高校も大学も順調に進学し、就職もした。
パソコン周りに詳しかったので、パソコンショップの店員になった。
彼はあるとき、自分が頭が良いということに気づき、自覚した。
そう気づいてから、自覚してから、こんなショップで働いているのがばかばかしく思えた。
もっと自由に幸せに生きたいと思った。
それで、日々訪れる客のパソコンの修理や設定作業を手伝いながら、こっそりとそのパソコンから、個人情報を抜き取った。
情報は自前のUSBメモリにひそかに移し、ボーナスをもらう時期になって退職した。
そのメモリも持って退職した。
情報は、悪い奴らか、情報屋に高値で売りつけるつもりだった。
退職日の帰り道で、彼はスマホをいじりながらある場所へ向かおうとしていた。
先日SNSでつながった情報屋のもとへ行こうとしていた。
情報の質にもよるが、1000万円から買い取ってくれるらしい。
彼は期待に胸が膨らんだ。
するとその時、目の前を黒猫が通った。
黒猫と目が合った気がしたが、知らぬふりをして通り過ぎようとした。
「お前の幸せはそんなことで手に入るものなのか。」
突然、猫がそう話しかけてきた。
「なんだって?」
「お前の手のひらをよく見ろ。そこに何がある。え、おい。お前の幸せをつかむはずの手は、何をつかもうとしているのか。」
「何を言うんだ、猫のくせに。」
青年はペッと唾を吐いて、その場を立ち去った。
だが、道の途中でなぜだか急にお腹が痛くなり、動けなくなってしまった。
情報屋には、急用が入ったと嘘をついて、その日は家に帰った。
すると不思議にも腹痛は収まった。
外は日が沈み、真っ暗になっていた。
青年はずっと猫の言葉が気にかかっていた。
なにか、後ろめたさのようなものがあったから、そういう風に聞こえたのかもしれなかった。
しかし、いったいあれは何だったのか、考えてもさっぱりわからなかった。
「明日になったら、情報屋のところへ行って、情報を売ろう。その金でバカンスに行くんだ。いや、それとも起業でもするか。投資でも始めようか。」
そんなことを考えていると眠くなってきたので、ホットミルクを飲んでその日は眠りについた。
朝、目が覚めると牛になっていた。
言葉を発しようとしても「モ~」としか言えなくなっていた。
これはどうしたことなのかと、部屋の中をぐるぐると歩いていた。
これでは情報屋のもとへ出かけることもままならない。
医者へ行くにも、この状況をどう説明したものか、考えもつかない。
日中ずっと慌てていると、夕方ごろになって昨日の黒猫が現れた。
「呪いをかけたんだ。」
と、黒猫は言った。
「お前さんがあくどいことをしようとするからだ。解いてほしいんなら、お前さんにとっての生きる意味や幸せってもんの答へを見つけて、・・・教えておくれよ。
どんなものでも構わねえが、テキトーなのではだめだ。
ちゃんと考えたかどうか、あたしにはすぐにわかる。
いいね、一週間後にまた来るよ。」
そう言い残して、黒猫は去った。
青年はそれから、ずんと重たい気持ちで過ごした。
「おれの生きる意味?
幸せ?
そんなものを考えたことはなかったが、いったいなんだ、それは・・・」
彼は牛の体のままソファに倒れこんだ。
ずっと天井を見上げていた。
彼には特にこれといった夢もなければ趣味もない。
ファッションには少しくらい興味はあったが、人並程度だ。
食に関心が深いということもなく、色事もそこそこ。
彼女はいない。
頭がいいはずなのに、そんな一言の問いにさえ答えを出すことができなかった。
自分は本当にバカだったと、青年は後悔した。
他人の個人情報を売って儲けようと、それが本当に自分の幸せになるだろうか。
たとえそれで裕福に幸せになれたところで、友人や家族に、胸を張っていられるだろうか。
そんなことがもやもやとぐるぐると彼の頭の中をめぐっていた。
そのうち、一週間が過ぎて、黒猫が約束通りに来た。
黒猫が「答えを聞こうじゃないか。」というと、青年の口が利けるようになった。
それで、思っていることをすべて話した。
「おれの生きる意味や幸せってのは、実はまだ答えが出ていない。
だが、人様の情報を盗んで売って得た金では、それは手に入らないような気がする。」
黒猫はじっと聞いていたが、最後になるほどとつぶやいて、呪いを解いた。
「それがお前さんの答えなんだろう。
お前さんは本当は律儀で賢い人間だ。
そのことに気づけたからそうなんだ。」
青年は人間の姿になったのを見て、黒猫に訊ねた。
「どうしてこんな試練を?」
黒猫は答えた。
「さぁ、なぜだろうね。
それも考えてごらんよ。」
黒猫は窓からさっといなくなってしまった。
それから青年は、手元にあった貯金で小さいながら事業を起こした。
パソコン関連のことで悩みを解決する会社を作り、企業や個人を相手に仕事を始めた。
いろいろと大変なこともあるが、ショップで働いていたころよりも楽しく、やりがいが持てた。
彼は二度と、他人の個人情報を盗んだりすることはなかった。
どこかで黒猫が見ているだろうと思った。
どこかから黒猫に見ていてほしかった。
おい、黒猫、見ているか。
おれは今、幸せだぞ。
おわり。
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