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前線が見えてきたため、そこに赴こうと思う

最近、あのころをよく思い出します。あのころというのは、わたしたちが、何かを「変えることができるのではないか」という希望を携えていたころです。

2009年、わたしは会社/デザイナーを卒業し、2010年、当時は珍しかったNPOの出版社(地域の価値創造など、公共性に重点を置いた出版社)を設立しました。そして2019年、わたしは議員という公職から退くこととなり、いま、2020年を迎えています。

もしかしたら、わたしにとって、9から0というのは、組織から離れ、個人に還る時期なのかもしれません。考えてみれば、1999年をもって、学校という長きにわたる組織への従属から脱することができました。すなわち、0年というのは、「あたらしい物語が動き出す地点なのではないか」と思うようになったのです。

忘れられないあの日

2010年、まるで奇跡のような一年でした。自分の人生を振り返ると、間違いなくここが転換期。2009年までは、全く受け容れられることがなかった(世間に明確な形式で提示していなかっただけかもしれないが、当人としては排除されている感覚を抱いていた)、わたしが持っている思想/怒り/アイデアが、2010年を境に一転して歓迎されたからです。

具体的には、『北海道裏観光ガイド』を、2010年11月21日(奇しくも、父親の誕生日だった)に発売しました。その2日前、北海道新聞朝刊の全道版に掲載されたことにより、紀伊國屋書店さんから注文が入り(書店直取引のため、イチから販路を開拓しています)、発売後には複数の棚で展開してくださっていた三省堂書店さんから大量の追加注文が入り(初版はISBNコードを付していなかったため、ランキングに名前が載らなかったことが残念)、そのあとはテレビの取材が続き、把握できないほどにTwitterで拡散されました。

北海道裏観光ガイドの発売日は、同時にはじめた「札幌ブックフェス」の最終日でした。このことも大きく報じられ、北海道新聞朝刊の2面に対談記事が掲載されたり、北海道新聞夕刊では体験記事が見開きで掲載されました(この一連の記事を書いてくれた、道新の寺町さんには本当に感謝しております)。

2010年11月21日、出版とイベントという経験したことのないことを同時に体験した忘れられない一日。イベントが終わるやいなや行商へと旅立ち、原付が停めてある室蘭の親戚の家に向かうため、吐き気を感じながら「急行はまなす」に乗り込んだ感覚を、いまも鮮やかに思い出すことができます。

シンクロニシティの予感

しかし、2010を忘れられないのは、仕事に反響があったとかそういうことではないのです。わたしと同じように、このときに出会った「異様なやつら」が、社会に迎えられはじめたのです。

2010年に、NHKで「好きだから、まっすぐ」という15分程度のドキュメンタリーが製作されました。このとき取材されたのが、現在はクリプトン・フューチャー・メディアに勤務している服部亮太、上海で活躍する芸術家(芸人と言ったほうが、正確だろうか)の山下智博、わたしでした。彼らもまた、2010年を境に人生を大きく変えていきました。

この番組を制作したのが、大海という男でした。同じ年だったため、大いに議論を戦わせ、時にはケンカもしました。このあとに出会うことになる吉雄さんもそうですが、立場は違うけれども、マス・メディアの仕事をする人のなかに、同じ方向を見ているクリエイターがいると知ったことも、共時性を感じる要因となりました。

さまざまなところで、こうした偶然のような必然との出会いを積み重ねて行き、わたしに希望という力を蓄えられていきました。その感覚と同じものが、最近よく降りてきます。あるときは現象に、あるときは人との出会いに、「あれ?これって2010じゃね?」というお知らせがあるのです。

意味のある仕事がしたい、ただそれだけ

わたしが願っていることは、意味のある仕事がしたい、ただそれだけです。意味ある仕事とは、その仕事が「自由と平和のために」在るのか、「個人と共同体の調和」がともにもたらされるものなのか、「混沌と秩序の両立」に資するものなのかということです。これが叶うなら、他は要りません。なぜならそれでもう、わたしは人生の目的(長くなりますので、またどこかでお話できたら良いなと思っています)を達成することができるからです。

意味のある仕事をしたい。そんなことを言うと、「いつまでも大人になれない人」だと言われる危険があります。だから、大人村から村八分にされないように、今が良ければそれで良いという大人のふるまいを身につけていきます。そうして村のエリートは、足るを知っているふりをして、意味を考えないことによる災いを見なかったことにするのです。

しかし、その人その人がそれぞれに指向する、意味のある仕事を求める人たちが、一つのまとまりに集結しはじめてきているように思うのです。そこにもう一度、わたしは希望を抱いても良いでしょうか?

絶望から希望を展望する

わたしは、絶望を知っています。2010年の自分と違うのは、その一点に集約されるように思います。わたしの絶望とは、かつて忌み嫌っていた大人村の人たちは悪者ではなく、その人たちも、その立場からの必死があったという事実です。

RPGであれば、悪者を倒せば、世界に平和が訪れます。しかし、わたしたちが暮らす社会には、悪の権化は存在しません。よって、だれかを倒したとしても、平和が訪れることはないのです。そのことに、極めて落胆しました。一夜にして平和を獲得することもままならず、日々途方に暮れながら、不断の情熱と忍耐をもってでしか、社会を改善していけないのが、わたしたちの置かれた環境です。おそらく、自分の生のなかで、目指した世界にたどり着くことはないでしょう。

わたしは、ただただ無力で、戦いに志願してくれた友に傷を負わせてしまったり、指導してくれた師の想いに報いることができなかったり、もう「わたしは、最初から決意など抱いていなかったのだ」と屈してしまいたい気持ちになります。

しかし、それでも支えてくれる恩人がいて、一緒に立ち向かっていく仲間がいます。その事実が、わたしを絶望から希望を展望させてくれるんだと思います。

はじめまして、堀直人です

2010年、まぎれもなく、あのシンクロを形成した一つの要因に、Twitterがあったと、わたしは思っています。そして2020年は、noteなんじゃないかなと思ったので、はじめてみました。みなさま、これからもよろしくお願いいたします。

はじめての投稿は、わたしが公共に生きる決意を抱いてから歩いてきた旅路をふり返り、それでも遠くまで歩いてきたことや、旅の途中でお世話になった人のことを思い出し、どうすれば計画的/選択的/合目的的な展開ができるか、どうすればご恩返しができるのかについて、じぶんの内なる部分と向き合いながら顧みてみました。

結論としては、はっきりしたことはないのですが、やはりこの旅を続けるということです。わたしは、どこかの地点で行き倒れるんでしょうけども、きっと誰かがたどり着く。そこにじぶんは立ち会うことはできないし、その「誰か」に会うこともない。いつかはわからない、誰かもわからない、でもいつか必ず「僕たち」はたどり着く。理想があるあの場所に。それが、わたしの希望です。

とりとめのないことが多くなるような気がしていますが、できたての思考についてをここに記していこうと思っております。

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