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『稲盛和夫一日一言』 7/13(木)

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 7/13(木)は、「生かされている私」です。

ポイント:人生でたいへんな苦労をした人は、「生かされている」と気づく。そこに気づいたときが、謙虚で敬虔になれるきっかけとなる。

 2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲翁の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)の中で、得度(とくど)した後、托鉢(たくはつ)辻説法をされた際の気づきについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 私が得度をさせていただいたのは、六十五歳のときでした。お釈迦様の教えをもっと深く勉強したいと思っていたところ、後に臨済宗妙心寺派の管長猊下(げいか)までつとめられた、西片擔雪(にしかたたんせつ)ご老師から、「得度でもしてみますか」と勧められたのがきっかけでした。

 その後、しばらくして思い立ち、「お寺で座禅を組むのも大切な修行ですが、多くの人々が迷い苦しんでいるなら、街へ出て、お釈迦様の法を説き、救いの手を差し伸べたいと思うのです」と、生意気にも申し上げたところ、お許しを頂き、各地で托鉢行脚(あんぎゃ)を始めることとなりました。

 僧が一人ずつ家々の玄関前に立つのを「軒鉢(けんぱつ)」、何人もの層が間隔を空けながら一列になって歩くのを「連鉢(れんぱつ)」といいます。
 信徒の方々からのお布施や浄財は、墨染めの僧衣に下げた頭陀袋(ずたぶくろ)を、両の手で高く掲げてありがたく頂戴します。その昔は米や野菜が多かったといい、そのまま仏僧の日々の糧(かて)となりました。

 現代では、食を得るという意味合いこそ薄れましたが、托鉢には禅僧の修行として今も重い意味合いがあります。
 一つは、僧自らが施しを受ける「乞食(こつじき)」の身になって人様からの恵みを受けることで、他によって生かされている己というものを知ること。
 もう一つは、他人に何かを分け与えることの喜びを、世に人々に知ってもらうということ。お布施のことを、喜んで捨てると書いて「喜捨(きしゃ)ともいうのは、そうした意味が込められているからです。

 そして、宗教にあまり関心を持たない現代の人たちが、これからの人生のどこかで挫折したり壁にぶつかったりして、何かに救いを求めようとしたとき、「そういえば、あのとき、あの街ですれ違ったお坊さんが、仏の教えを説いていたな」と一瞬でも思い出してもらえれば、それだけでも大変意味があることであり、それが「仏縁(ぶつえん)をつなぐ」ということでもあるのです。(要約)

 人間は「生きる」or「生かされている」のどっちなのでしょうか? 
 今日の一言には、「われわれは、この現世で生きているとみな思っている。しかし、人生でたいへんな苦労をした人は、生かされていると気づく」とあります。

 つまり、「生かされている」と気づくことで、改めて「生きる」ということの意味をより深く認識できるようになる、ということなのでしょう。

 松下政経塾の塾主でもあった松下幸之助さんは、このことについて、次のように述べられています。

 あくまで人間は「生かされている」のである。そう考えることによって、自然と万物に対する感謝と礼の心が生まれ、自分という存在と同様に、全ての存在の大切さやありがたさを感じることができるようになる。
 その前提の上で「生きる」。そしてそこには、人間社会を間違った方向に進むことなく、互いに向上発展していけるように衆知を集め、自然の理法に則って万物を生かしていくような生き方、人間道が求められる。(要約)

 今自分が命を持って存在しているのは、両親がいたからであり、その両親の存在はご先祖様がおられたからです。また、自分の子どもが生を受けたのも、自分と伴侶がいたからであり、孫が生を受けたのもまた、子どもが伴侶を得ることができたからです。
 また、日本という国があり、多くの人々が生活する世界があり、多種多様な生命を育む地球号があり、さらには大宇宙が存在しているということにまで思考を広げていけば、自分は「生かされている」のだと気づくことは、そう難しいことではないように思えます。
 「謙虚にして驕らず、さらに努力を!」


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