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『稲盛和夫一日一言』 4月16日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4月16日(火)は、「正道を貫く」です。

ポイント:長い目で見れば、繕い隠そうとするものが何もない、つまり「正道を貫く」ことが一番楽な生き方である。

 2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)の中で、正道を踏むことが万人の務めであるとして、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

【遺訓ニ八条】
 道を行うには尊卑貴賤(そんぴきせん)の差別なし。摘(つま)んで言えば、堯(ぎょう)舜(しゅん)は天下に王として万機の政事を執り給え共、その職とする所は教師也。孔夫子(こうふし)は魯(ろ)国を始め、何方(いずかた)へも用いられず、屡々(しばしば)困厄(こんやく)に逢い、匹夫(ひっぷ)にて世を終え給いしか共、三千の徒(と)皆道を行いし也。

【訳】
 正道を行うことに身分の尊いとか卑しいとかの区別はなく、誰でも行わねばならないことだ。要するに昔、中国の堯、舜は国王として国の政(まつりごと)を行っていたが、もともとその職業は教師であった。孔子先生は、魯の国をはじめどこの国にも用いられず、何度も困難な苦しい目に遭われ、身分の低いままに一生を終わられたが、三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。

 正道を踏み行うことに、身分の貴賤はない、等しくみんなが実行しなければならないものであり、みんなが実行すれば、社会はもっと豊かで素晴らしいものになる。西郷の嘆きが聞こえてきそうです。

 幕末の激動を生き抜き、明治という新しい時代の幕開けに尽力した志士たちは、西郷だけでなく、みんな当初は正道を唱え、正道に基づいて行動していたはずです。
 ところが明治になり、新政府の要職を得ると、皆豹変してしまうのです。豪邸に住み、さらに自分自身の栄耀栄華、栄達の道を競い合った。明治維新後、わずか四、五年でそういうことになってしまいました。

 文明開化に明け暮れる軽薄な輩(やから)が次から次へと出てくるし、正道などというものは時代遅れになっていこうとしていた。そういう傾向に対して、そうであってはならないのだと、西郷は一人敢然と警鐘を鳴らしたのです。

 この西郷の嘆きは、軽佻浮薄(けいちょうふはく)に流れ、「志」という言葉すら死語になりかかっている現代にこそ、痛烈に響きわたるものであろうと思います。
 現代が「正道」を実践できないのは、「正道とはなんぞや」ということが、もはや分からなくなってしまっているせいかもしれません。

 「正道」とは、人間の小賢しい考えが入っていない、いわゆる天の摂理のことです。表現するとすれば、正義、公平、公正、誠実、謙虚、勇気、努力、博愛、そして西郷がいう無私というような、人間が生きていくにあたって規範となるべき、基本的な徳目のことです。
 または、「うそをつくな、正直であれ、人を騙すな」といった、幼いころに親や先生から教わった、人間としてやっていいこと悪いことという道徳律のことです。そのようなプリミティブな教えこそが「正道」なのです。

 正しいことを勇気をもって貫くべき局面において、「こんなところで勇気を出して正論をいったのでは、自分が不利になるのではないか」という打算から節を曲げてしまう。または、「おまえのように堅苦しいことばかりいっては、みんなが苦労をする。そこを少し理解して、曲げてやれ。気を利かせろ」と周囲に諭され、志を曲げ、信念を引っ込めてしまう。

 そのようなことが、現在の社会のさまざまな歪みの根底にあります。この社会を少しでも良きものとするためには、私たち一人ひとりが、「正道を踏む」ということの大切さを改めて理解し、その実践を心に刻むことです。
 そのような基本的な倫理観の確立こそが、法令遵守よりも先にあるべきではないでしょうか。
(要約)

 今日の一言には、「自分の名誉や地位、財産などにこだわりがあり、それを必死に守ろうとして、複雑怪奇な策略を企てる、そんなことをするものだから、みんな憔悴(しょうすい)してしまうのです。一方、そんな下らないものは何もいらないと思えるようになれば、策など一切弄する必要はありません。それが一番簡単で楽なことなのです」とあります。

 京セラ社内である不祥事が発覚した際に、「正道を貫く」ことの難しさについて、名誉会長は次のように話されています。

 職場の誰か一人でも勇気を出して、「それはおかしいではないか」と言い出す者がいれば、今回の不祥事は起こらなかったはずです。
 会社全体が、正道を貫くことをよしとするような社風でなければなりません。今まで私は、そういう会社をつくってきたつもりですが、「正しいことを貫こう」ということが単なるお題目になってしまい、実際に社内で実践されていないとすれば、非常に残念でなりません。
(要約)

 「正道を貫く」ということが単なるお題目になってはいないか。
 「面倒なことには巻き込まれたくない」とか、「こんなことを言い出したら、周りから変な目で見られそうだから、ここはだんまりを決め込もう」といった我が身可愛さ基準の判断を繰り返していれば、いつしかそうすることが習い性になり、ひいては主体的な人生を歩むことも難しくなるでしょう。

 勇気のいることではありますが、誰もが「正道を貫く」ということは避けて通れないものなのだということを、改めて認識し直す必要があるのではないでしょうか。


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