手擦れた「生物 一問一答」とすっかり顔に馴染んだ眼鏡が三月の風に煽られそうになった。 「お待たせ」 駅の構内から出てきた奏が僕を見つけて駆けてくる。 紺色…
まず、娘である奏が目の病気を患うずっと前から、久保の心が不安定だったということが書かれていた。 とりとめなくその理由が綴られているが、無理に要約すれば、「気…
成美さんの質問を、奏は否定しない。 「奏さんは僕の大切な人なんです」 僕が答えると、奏は「何言ってるの!?」と声を荒らげ家からとび出てきた。蚊の大群に集中攻…
インターホンの呼び出しボタンを押した。 反応が無かったため、もう二回繰り返す。壊れていて家の中に音が響いていないのかもしれない。 僕はドアを叩いた。ドアの…
「あれ、どうして俊介くんが?」 作業着姿の五十嵐は僕に気を取られ、父の不自然な表情には目もくれていない。 「私のせがれなんです。お世話になってます」 父が頭…
思わず足を止め、人名を見直す僕を置き去りにして父は中へ入ってしまう。 気後れしながらも僕も後に続いた。 人の姿は無かった。展示の準備をしているようで、床に…
「な、なんで」 突然現れた父に尋ねながら、今日が休診日だということを思い出す。スーツ姿ではないがよそ行きの服装をした彼も肩で息をしていた。 「お前、今、と、飛…
* スマホを取り出して時刻を確認した。やはり朝の九時半を過ぎている。 とっくに開店しているはずの時間なのに、セントラルの店内は暗い。 ガラス戸にはコピー用…
「僕の娘は天使ではなかった」 画家にとって、作品たちは手塩にかけた我が子のようだろう。 しかし彼は深淵に臨むような顔つきをしている。その凄みに、それ以上「ど…
数年後、第三志望の中高一貫校に入学することが決まった。父は約束通り久保誠一郎の絵を購入してくれた。 草原の上に崩れた教会が描かれている絵だ。合格祝いにはふさ…
彼によると、点描の中に人の影が認識できるファンはさほど珍しくは無いらしい。久保誠一郎の展示の来場者たちはたいてい、人影を有難がって鑑賞していく。人影を見る能力…
* 僕は、父と一緒に地下鉄に乗っていた。 本格的に中学受験の勉強を始める前であり、父がジョギングに興味を持ち始めた頃だ。 まだ実家のマンションに家族四人で…
「ごめんね。不安にさせたよね。俊介くんが望むなら、五十嵐先生とは本当にもう何も無いって、今から講師室に行って証明するよ」 捨てられないよう、必死にすり寄るよう…
花を自由に描きなさい。 それが今日の油絵の課題だった。モチーフは用意されていないから、生徒各自がそれぞれの記憶を頼りに花を描いていくしかない。 僕はカンヴ…
目の周りを赤く染めた奏と電車に乗り込む。 行きと違って帰りは大人しい。僕は邪魔されることなく一問一答集を捲ることができた。「角膜」、「網膜」、「桿体細胞」、…
サプライズの主催者は顔を隠すように頭を垂れ、微動だにしない。店員は彼女の様子に、接客用ではなく心からの笑顔に切り替えた。サプライズに感極まっているのだと思って…
ばやしせいず
2024年6月16日 18:42
手擦れた「生物 一問一答」とすっかり顔に馴染んだ眼鏡が三月の風に煽られそうになった。「お待たせ」 駅の構内から出てきた奏が僕を見つけて駆けてくる。 紺色のトレンチコートの裾がはためいた。髪はおめでたい式の参列者らしくきっちりと結い上げられているから、少しも乱れない。 彼女がよろけたので肩を支えた。「慣れない靴だから」 照れたように笑う彼女の手には、ブーケトスで獲得したという白
2024年6月15日 17:45
まず、娘である奏が目の病気を患うずっと前から、久保の心が不安定だったということが書かれていた。 とりとめなくその理由が綴られているが、無理に要約すれば、「気質」と言い表せるかもしれない。帽子をいじる指や、来場者に機械的に頭を下げる姿が思い出された。 絵を描くことにより情緒は少しばかり落ち着くのだが、やはり誰からも、「天使」は認識されない。胸を襲う不安に矛盾して画家としてのプライドは高く、
2024年6月15日 11:52
成美さんの質問を、奏は否定しない。「奏さんは僕の大切な人なんです」 僕が答えると、奏は「何言ってるの!?」と声を荒らげ家からとび出てきた。蚊の大群に集中攻撃されたのではないかと思うほど瞼が膨れ上がっている。「お母さんっ、お父さんが死んだのはね……!」「奏さんと成美さんにお話したいことがあるんです」 僕は成美さんの目をまっすぐに見据えて言った。彼女は一度目を伏せ、意を決したように
2024年6月14日 20:51
インターホンの呼び出しボタンを押した。 反応が無かったため、もう二回繰り返す。壊れていて家の中に音が響いていないのかもしれない。 僕はドアを叩いた。ドアの向こうで靴が砂利を噛むのが聞こえた。 まず、ぱちんと内鍵のしまる音がする。賢明な判断だ。 約十センチの隙間からやっと奏が顔をのぞかせたがまた勢いよく閉ざされた。反射神経の有無を調べる検査なら文句なしの一発合格だ。 彼女の目が赤く腫
2024年6月13日 20:20
「あれ、どうして俊介くんが?」 作業着姿の五十嵐は僕に気を取られ、父の不自然な表情には目もくれていない。「私のせがれなんです。お世話になってます」 父が頭を下げた。「えーっ!? 苗字が同じだとは思ったけど、まさか親子だったなんて」 五十嵐は目を丸くさせながら長い髪をまとめる。「ああ、でも並ぶと確かに似てますねえ。言ってくださいよ、もう」 僕は父親と母親のちょうど中間くら
2024年6月12日 18:02
思わず足を止め、人名を見直す僕を置き去りにして父は中へ入ってしまう。 気後れしながらも僕も後に続いた。 人の姿は無かった。展示の準備をしているようで、床に等間隔で絵が並べられている。 全て久保誠一郎のものだった。「明日から来月まで、ここで彼の個展が開催されるんだ。亡くなってから初めての展示だ」 会場を見回し、父は「やっとだな」と腕を組む。「なんで」 全く理解が追い付かない
2024年6月11日 19:48
「な、なんで」 突然現れた父に尋ねながら、今日が休診日だということを思い出す。スーツ姿ではないがよそ行きの服装をした彼も肩で息をしていた。「お前、今、と、飛び出そうとしてなかったか!」「そんなわけないよっ」 我が父のくせにやけに勘が鋭いじゃないかと思いながら声を荒らげる。僕自身もひどく動揺していた。自分が死を考えていたことが信じられなかった。 結局、僕はまだ死にたくなかった。少しも
2024年6月10日 16:29
* スマホを取り出して時刻を確認した。やはり朝の九時半を過ぎている。 とっくに開店しているはずの時間なのに、セントラルの店内は暗い。 ガラス戸にはコピー用紙が貼られていた。手書きの丸っこい文字で「モーニングは終了とさせていただきます。」とある。 味オンチだから、セントラルの料理のクオリティには目を瞑れる。 店員も無愛想で構わない。多くの若者がそうであるように、僕だって赤の他人とコミ
2024年6月9日 21:23
「僕の娘は天使ではなかった」 画家にとって、作品たちは手塩にかけた我が子のようだろう。 しかし彼は深淵に臨むような顔つきをしている。その凄みに、それ以上「どうして」とは責められなかった。 しかし疑問は尽きない。 この会場にいる全員が全員、真剣に「天使の絵」をのぞきこんでいる。見えているのはただの人影だろうけれど、彼らはこんなにも喜んでいるのだ。 それなのに、どうして。 僕は彼が帽
2024年6月8日 17:26
数年後、第三志望の中高一貫校に入学することが決まった。父は約束通り久保誠一郎の絵を購入してくれた。 草原の上に崩れた教会が描かれている絵だ。合格祝いにはふさわしくないのではないかと両親は言ったが、僕には希望のある作品に思えた。教会から這い出て羽ばたこうとする天使が見えたからだ。 僕が一人暮らしを始めるまで、その絵は実家のリビングに飾られていた。サイズが大きく、マンションのリビングでは窮屈そ
2024年6月7日 18:02
彼によると、点描の中に人の影が認識できるファンはさほど珍しくは無いらしい。久保誠一郎の展示の来場者たちはたいてい、人影を有難がって鑑賞していく。人影を見る能力があるということで、優越感を抱くような人もいる。 しかし、その人影が天使の翼を生やしているのが見える人間は、ほんの一握りだそうだ。 久保誠一郎は僕の色覚を絶賛してくれた。 一方、人並の色覚しか持たない父は、胡乱気な視線を久保に送って
2024年6月6日 18:44
* 僕は、父と一緒に地下鉄に乗っていた。 本格的に中学受験の勉強を始める前であり、父がジョギングに興味を持ち始めた頃だ。 まだ実家のマンションに家族四人で仲良く暮らしていたし、セントラルという店は、その存在すら知らなかった。 事故もまだ起きていない。 悪夢にうなされず、心と体にも亀裂は無くて、僕は粘土のような一つのかたまりだった。 小学校の図書室で借りた本で欠伸を隠す。 前日の
2024年6月5日 17:55
「ごめんね。不安にさせたよね。俊介くんが望むなら、五十嵐先生とは本当にもう何も無いって、今から講師室に行って証明するよ」 捨てられないよう、必死にすり寄るような顔。 七五三木さんの前で見せていた顔と同じだ。 婚約者の浮気相手と一緒に食事をした七五三木さんの懐の深さに、いまさらながら感心する。 何も言わないでいると、奏はごめんなさいともう一度謝った。 彼女は誠意を見せてくれた。これで
2024年6月4日 18:45
花を自由に描きなさい。 それが今日の油絵の課題だった。モチーフは用意されていないから、生徒各自がそれぞれの記憶を頼りに花を描いていくしかない。 僕はカンヴァスの上にひまわりを描くことに決めた。花には少しも興味が無い。まともに描けそうなのは、わざわざ花屋まで受け取りに行ったブーケに使われていたひまわりくらいだった。 完成した僕の絵を見た岩井は眉を寄せた。黄色いひまわりの花に紫色を使った
2024年6月3日 18:59
目の周りを赤く染めた奏と電車に乗り込む。 行きと違って帰りは大人しい。僕は邪魔されることなく一問一答集を捲ることができた。「角膜」、「網膜」、「桿体細胞」、「錐体細胞」という言葉たちが載るページを繰り返し読んでいた。 彼女はずっと花束を握りしめている。 満開のひまわりが、情緒の無い蛍光灯に照らされていた。細長い舌状花の付け根は紫色で、酸欠を起こしているみたいに見える。 花が苦しそうだっ
2024年6月2日 15:55
サプライズの主催者は顔を隠すように頭を垂れ、微動だにしない。店員は彼女の様子に、接客用ではなく心からの笑顔に切り替えた。サプライズに感極まっているのだと思っているらしい。「ありがとうございます」 奏と、帰ってしまった七五三木さんの代わりに僕は精一杯の笑顔を作り、蝋燭に息を吹きかける。三回目でようやく火花を消すことができた。受験が終わったら肺活量を増やすためトレーニングしようと決意する。