第42話「名のない光が結ばれる」
*
スマホを取り出して時刻を確認した。やはり朝の九時半を過ぎている。
とっくに開店しているはずの時間なのに、セントラルの店内は暗い。
ガラス戸にはコピー用紙が貼られていた。手書きの丸っこい文字で「モーニングは終了とさせていただきます。」とある。
味オンチだから、セントラルの料理のクオリティには目を瞑れる。
店員も無愛想で構わない。多くの若者がそうであるように、僕だって赤の他人とコミュニケーションなんて望んでいないから。
ここまでセントラルを容認している客は他にいないだろう。そう自負していたのに、店のほうは僕の来店を全く歓迎していない。奏にだって、もちろん会えない。
今朝はモーニングを堪能してから菅美に行く予定だった。藝大の一年生たちがアトリエにやってきて、デモストレーションをしてくれるらしい。つまり、藝大の入試で描いたデッサンや油絵をもう一度再現して描いてくれるのだ。
滅多に無い貴重な機会で、美大や芸大に進みたいのなら必見だ。
本当に、美大や芸大に進みたいのなら。
本当に進みたいのだろうか。
僕は自分に問う。近頃、菅美に向かう足が重い。
菅美に入った当初に比べ、少しずつ上達している。講師の岩井が、「青美にねぇ、なんとか入れたらいいんだけどねぇ」と苦笑いするくらいには。
食品サンプルのケースの横に「ばーか」と描かれた油絵が棄てられていないのを確かめ、僕は店を後にした。店の前の大通りを車が行き交っている。
本当に美大に進みたいのだろうか。
もう一度自分に尋ねる。絵を描くのは好きだ。でも、描いても描いても、誰も認めてくれない。誰も褒めてくれない。
意識が高い人々の間で流行っている、マインドフルネスというものをしてみれば正直な気持ちになれるのだろうか。しかしここは公共の場なので胡坐を組むことは憚れる。
それに、もしそれをやることによって自分に正直になってしまったら、
僕はきっと。
大通りを眺める。
自家用車もタクシーもトラックも、申し分なく通行している。国産車でも輸入車でも、車種は選びたい放題だ。
乗り物が好きで、いつもミニカーを手に握りしめていた友達がいた。ごっこ遊びのストーリーもいつも同じだ。まず、自分の妹の人形を車で押しつぶす。すると彼の救急車が助けに来る。一度関節の外れた人形は直してもすぐにばらばらになってしまう。けれど、ガムテープを駆使すればなんとか人形の体を取り戻す。
人間は人形とは違うので、ばらばらになったらそれでお終いだ。
自分に素直になり、感情の赴くままに大通りに飛び出せば、僕の心と体は再起不能なほど粉々になる。つなぎとめてくれる人はもういない。
「うわっ……!」
誰かに羽交い絞めにされた。
太い腕に胸や腹を圧迫され、セントラルの駐車場まで引き戻される。右の靴が脱げた。
血の気が引いていく。
「高校生が何者かに刺され死亡。犯人は未だ逃走中」。淡々と原稿を読むアナウンサーの横に僕の写真が表示されている。誰かがメディアに提供した、修学旅行の時のものだ。笑顔だが半目で映っているやつ。奏ならもう少しましな写真を持っているはずだ。情けをかけて、差し替えてくれないだろうか。
それが最期の願いだ。
「助けてぇっ!」
妄想しながら情けない声で叫ぶ。
「ああ、もう、……もう大丈夫だっ!」
耳元で大声を上げられたせいで鼓膜がばりばりと震える。
この声の持ち主を、僕はよく知っていた。
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