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第46話「名のない光が結ばれる」

 インターホンの呼び出しボタンを押した。
 反応が無かったため、もう二回繰り返す。壊れていて家の中に音が響いていないのかもしれない。

 僕はドアを叩いた。ドアの向こうで靴が砂利を噛むのが聞こえた。
 まず、ぱちんと内鍵のしまる音がする。賢明な判断だ。

 約十センチの隙間からやっと奏が顔をのぞかせたがまた勢いよく閉ざされた。反射神経の有無を調べる検査なら文句なしの一発合格だ。
 彼女の目が赤く腫れていたのを僕は見逃さなかった。

「どうして来たの!」

 閉ざされたドアの向こうで当然ながら彼女は怒る。

「家にあげてほしい」

 蚊たちを払いながら懇願した。

「俊介くんの顔を見るの、すごく辛いよ。そのくらいわかってよ」
「ごめん。でも、とにかく中に入れてほしいんだ」

 相手が嫌がるとわかっていてもやらなければならない時がある。患者が泣くからといって小児科医が予防接種を諦めることはできない。奏はヒステリックに「もうっ」と声を上げる。

「帰って! いい? あと二回『帰って』って言うまでに帰って。私、もう警察のお世話にはなりたくない!」

「あなた、漫画の読み過ぎ」

 振り返ると庭先に閻魔大王が立っていた。よく見ると、人間の女性だった。
 奏の母親だ。
 僕はすぐに彼女を認識できた。
 忘れられるはずがない。久保誠一郎の葬式への参列を願う僕と父を門前払いした女性だ。

 名前は小池成美。
 外壁にくくりつけられた看板に、しっかりとフルネームが書かれている。

「三回『帰れ』と言って帰らなかったら不法侵入になるなんて法律、どこにも無いらしいわよ」

 一方、彼女は僕が誰だか、さっぱりわかっていないようだった。
 突然未亡人になってしまった人は押し並べてそうなるであろうが、あの時、彼女もひどく取り乱していた。だから僕の顔を覚えていなくても無理もない。
 もし僕の正体がわかっているなら、こんな風に冷静になって娘を諭せるわけがない。

 彼女は仕事帰りなのか、品の良い紺のワンピースを着ている。化粧もきちんとしているけれど、どうしても頬骨のあたりのシミが見えてしまう。
 彼女の周りにも蚊が飛び交い始めた。

「奏のお友達? もしかして、彼氏かしら」

 彼氏であることを期待しているような口ぶりにも聞こえた。
 夕日が眩しいのか、睨むように目を細めているが、口元は好意的に緩んでいる。アンバランスな表情だった。

「喧嘩でもしたの?」

 喧嘩じゃないよと奏が代わりに答える。

「とりあえず、こんなところにまで来てくれたんだから家に上げてあげれば? これ以上害虫たちに献血するのは私もごめんだわ」

 赤くなった二の腕をさすりながら彼女は楽しそうに笑う。娘が年頃になったことを心から喜んでいるようだった。

「その人がお父さんを殺したの!」

 耐えられなくなった奏が事実を叫ぶ。

 成美さんは目を見開いた。

 誰も二の句が継げない。蚊の羽音がよく聞こえた。

「お久しぶりです。僕は、峯本です。峯本俊介です」

 言った途端に喉が渇きだす。足元にあるホースの先を口に突っ込みたくなるくらいに。

「どうして、来たんです」

 成美さんは唇だけを動かして静かに訊く。

「私たちの前には来ないでほしいと言ったはずですが……」

「はい」
 かさついた声で僕は返事した。

「……奏と付き合っているの?」
 先ほどと同じ意味合いの質問を彼女は繰り返した。
 しかし浮ついた様子はもうどこにも無い。崩れた花束みたいな声だった。

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