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忘れたくない瞬間は忘れたくないのに忘れてしまう件について

ある休日の夜。
とても充実した一日の締めくくり。
時間を惜しむように、パートナーとの問答に花が咲く。

その日は一日、朝から晩まで彼と二人で笑い合った日だった気がする。




私たちはかれこれ10年近く、こんなことを繰り返している。
思い出せないくらいの思い出が、たくさんたくさん積み重なっている、はずだ。


最近はだいたい、朝寝坊から始まる贅沢な休日。
動き出す頃には昼過ぎだが食に妥協はなく、真剣に選んだ客単価1000円台の店で喜びを分かち合い、満腹になったらショッピングをしたりしなかったりして帰路につく。

これはここ数年のルーティーンだが、一方で学生時代から変わらないことは、酒を飲んではとりとめのないことを語り合っている時間に一番の幸せを感じることだ。

同じ趣味の動画をみて笑い、歌い、映画を見ては考察動画を漁り、そうして出会った頃からの思い出を気まぐれに紐解いては、語り合う。
気づいたら寝落ちしていて、なんか楽しかったなと充実感がある。


でもそんな尊い記憶が、はっきりと細部まで全て思い出せるという日は、記念日も含めて1日たりともなかった。

私は思い出を大切に思うタチなので、日記に「すっごく楽しかった!最高!」とか「こんなことをしてしまった。最低。次は絶対こうする。」とか、そういうことはたくさん書いている。思い出も経験も、覚えているほど人生を豊かにする力になると信じているから。

でも、そうやって事細かに書いたはずの日記でさえ、記憶を100%戻してはくれない。そればかりか、日記に残っているのは一日分で言えばほんの1%にも満たない、情報と感情だけだ。

「昼に起きて一風堂に行き、ショッピングして帰った。夕食はタコパ。笑顔が可愛い。素敵。幸せ。」

こんな日記を見ても、何がどうして可愛かったのか、あいつのどんなところが素敵で何に幸せを感じたのかなんて一つも思い出せなかった。


そうやって日記を読み返しては、大切な思い出が私の中から完全に消えてしまった悲しみを胸に、日記の書き方を改善してきた。

最近はいつ何をしたかわかるように一列24時間表記の手帳に、起床就寝食事といった生活の骨子を記載し、体調や感情もそこに肉付けすることで、少し解像度が上がったように感じていた。

が、この日記の問題点は、感情が動いた出来事や、詳細を残しておきたいことを書くフリースペースがないことだった。
また、情報量を担保したために、なんとなくで書き始めるには筆が重くなってしまった。歯抜けのような貧弱な日記帳を見て、ますます日常の思い出の解像度が下がってしまった悲しみに襲われる。


そうして表面上の「幸せ」「大好き」「反省」が積み重なってできた日記帳は、私の健康管理には大いに寄与してくれたが、過去の日記帳にあった「嬉しすぎて3ページも筆が進んでしまった!」みたいな感動や心の動きが、微塵も残されていなかった。




前置きが長くなってしまったが、こんなことをずっと考えていた私に訪れた、冒頭の幸せな休日の夜。

この日は将来の話をしている中で、過去と現在の暮らしぶりや二人の関係性を比較して「今が一番幸せだね」との結論に至った。10年一緒にいていまだにこんなこと言い合っているなんて、とんだバカップルだと自分でも思う。

だが、こんな瞬間は是非とも残しておきたいし、なんならこの日は一日幸せが溢れていたので、全て文字で残しておこう。と私は密かに決意する。
今の日記帳で足りない部分はメモページに特設コーナーを設ける運用にすれば、たまの感情のビックウェーブをしっかりと刻みつけられる。そう、今日のような。

考え事をしている私の横で、これまた考え事をしていた彼が口を開く。

「この先一生、死ぬまで、今日みたいに笑い合って仲良く生きていきたいね。」



巷でよく聞く、ライフステージや環境の変化からの関係悪化は、私も彼もずっと懸念していた。(そうして気がつけば10年になるが。)
時折思い出したようにその話をしては、結論「とにかく話し合うしかない。お互いの大切さ、積み重ねてきた思い出を忘れない。」そういう具体性に欠ける終着点に落ち着いていた。



時間が経っても、環境が変化しても、こういう風に話し合って楽しく過ごせる、変わらない関係でいたい。

それはパートナーを持つ誰もが願っていたことに違いない。
お互いに愛しいから、大切だから、唯一無二のパートナーとして自分で選んで、二人で生きていくことを決めたのだから。


それでも、産後の関係悪化であったり、熟年離婚であったり挙げればキリがないが、そういう変化に襲われたたくさんの「愛し合う二人」がいて、私たちにその可能性がないとは決して言い切れないわけで。


話し合おうとする努力、お互いを大切に思う気持ち、思い出を忘れないようにする努力。そういう努力だけでは足りないのだろうか。




私は他の人よりキャパが少ないと自覚している。
今まで無理をしては、大切な人を傷つけてきて自分の小ささに気づいた。


だから、あっぷあっぷになって大切なものを見失わないように、忘れないように、自分の記憶に刻みつけるように日記を書いてきた。
そうしてたまに読み返して、自分の行いを反省してきた。


でも、日記には残しきれない、覚えきれないたくさんの思い出は、どうしたらいいのだろう。


今までもらったたくさんの言葉、その場で満足して残せていない言葉たちがたくさんある。感動したはずなのに、日記におこす頃にはその言葉が思い出せない。


初めて喧嘩というケンカをした時、二人とも冷静じゃなくて彼がPCに論点を書き起こそうとしてうまくいかなかったことは覚えている。たくさん泣いた。
でも、なんで喧嘩したのか思い出せない。


うまく眠れなかった時、夜中に何度も起きて私の足をマッサージしてくれた彼は、優しく頭を撫でてくれた。
でもその時、なんて言ってくれたのかどう頑張っても思い出せなかった。

病気で動けなくなった時、たくさん泣いて弱音を吐いた時、彼はずっと抱きしめてくれたけど、ずっとって何回?どれだけの時間?
そんなもので愛の大きさは測れないけど、なぜ四六時中ストップウォッチを握っていなかったの、と思ってしまう。それくらい細部に大事なことは隠れてるに違いないのに。それを忘れたくなくて、私はずっと日記を書いているのに。

在宅勤務に切り替えて、辛くなった時はいつもそばにいてくれた。
名実ともにお荷物になってしまったとずっと思い続けた私の心を溶かしてくれたあの日の彼の言葉を、思い出せない自分が嫌になる。


自分の人生を変えた、こんなに大切な思い出も、断片的にしか思い出せない。



心にふと温かい気持ちが溢れた時、それはいつなぜどうしてそう感じたの?

それが幸せだということはわかっても、その幸せはいつも唐突に現れて消える。
文章に残して覚えておいたり、再体験できるものではなくなってしまう。

このご時世に30代と言う若さで物忘れについて論じるとは、軽率にも程があると思われてしまうだろうが、この誰もが身に覚えのある「宝物のような時間」を忘れない方法を、どうにかして私は手に入れたいのである。



#創作大賞2024 #エッセイ部門

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