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ショートショート 22 天井天下唯我浴室


 意識して心臓の鼓動を感じることなんて、運動会で全力ダッシュしたあとぶりだ。

 でも、そんなに激しいものではなくて、あぁ、私の心臓が脈打っているんだなって感じる程度だけど。

 顔に水滴が当たる。すでに濡れているというのに拭ってしまうのはなぜだろう。腕を水面から出し、手のひらで頬をさする。鏡に映る自分をなんとなく見て、泣いているみたいだなって思う。自分だから泣いているわけじゃないってわかるけど、誰かに見られたら、多分泣いているように見えるだろうな。

 なんて考えて、そもそも今この瞬間を見られることは涙を、泣いている姿を見られるより恥ずかしいと気づいた。なんせ私は全裸だ。アニメみたいに浴槽の中に入っている部分の体が見えなくなるわけじゃないし、もうもうと湯気が出ていて隠してくれるわけでもない。そもそも私は湯気がもうもうとしているのは好きじゃないので、いつも浴室のドアをうすく開けている。

 いつも私はお風呂に入るとき、なんらかのデバイスを持ち込む。それはスマホでもいいし、もっと大きなタブレット端末でもいい。それでアニメやネット番組、YOUTUBEを見るのが日課だ。

 昔から私はお風呂が嫌いだった。じっとしてないといけなくてうずうずした。修学旅行や友達とのお泊まりだったら話す相手がいるから退屈しないけど、一人だとやることがなくて退屈で、すぐに出たくなった。学生時代は家に親がいるし、ど田舎すぎてお風呂まで回線もWi-Fiも届かないから叶わなかった「お風呂で何かをする」という行為が大学生になった今、ようやく実現することができた。

 だいたい見るものは二十分くらい。YouTubeの動画で短いものもあるが、そんなときはだいたい複数の動画を見れば二十分なんてすぐだ。やりはじめて二十分入浴が自分の体に合っているとすぐに実感した。お風呂の中で動画を見ることで頭を動かしている気分になるし、血行が良くなったかなんかで風呂上がりの寝つきもいい。水分が持って行かれるから寝る前にちゃんと水分補給して寝るようになって、目覚めだっていい。なんかの動画で二十分入浴は健康にいいと聞いたこともあるし、これは素晴らしいものに違いない。

 とはいえ、毎日自分を刺激してくれるようなコンテンツに出会えるわけでもない。好きなYouTuberは毎日動画配信をやめたし、アニメだって週に一回しか新しい話が更新されない。好きなネット番組の同じ回を見返すのにも飽きた。

 何度か水が端末に当たって画面が変に歪むのも、それを拭いて、推しの顔にモザイクみたいなのがかかるのに嫌悪感を隠せずにいた。

 顔にまた水滴が当たる。それを拭くと、水面が波を立てる。しばらくじっとしていても、波の揺れがゼロになることはない。私の心臓が脈うち、体に血を送っている。お風呂に入っているせいでそれが顕著になっているからかどうかわからないが、私の目から見て、完全に静止することはない。

 というより、だ。私がいくら止まっていても頭上から水が滴り落ちるから、本当に静止したかどうかを確かめるより早く、乱されてしまうから困る。

 なんとなくいらついた私は浴槽のお湯がこぼれるのも気にせずに勢いよく立ち上がった。それはきっともうもうの湯気でも隠せないほどの勢いで。立ち上がってすぐに思ったのは外から漏れ出る冷たさだった。これから冬は多少もうもうになってもいいからドアを閉めて入浴することにしようと即決してしまうほどの寒さに、お湯に戻りたくなったが、顔に当たる雫がその気持ちを忘れさせてくれた。

 お湯が蒸気となって上り、天井に当たって冷やされて水になる。それが浴槽に入ってまた蒸気になって、の繰り返し。それが私の平穏を乱すんだと思うと、汚いであろう天井を直接触って水滴を拭うのにも抵抗はなかった。

 しかし、表面張力を保つ蛇口みたく、いくら拭いても滴り落ちるのに変わりない。大元の水分を断ち切らなくてはいけないのは分かりきっていた。しかし寒くて仕方がなくて、お湯の中に体を戻すとき以外は、何度も何度も天井をぬぐった。

 結果は変わらない。暖簾に腕押しどころか、鉄扉にでこぴんしているような気分だ。

 ピーンポーン。

 チャイムが鳴って、我に戻った私は、

「はーい! 少し待ってくださーい!」と言って急いで服を着る。なにかAmazonでも注文してたっけ? それとも宗教勧誘? 押し売り? 私を狙ったストーカー?

 服を着てからすぐに玄関に向かった私だったけど、一応ドアスコープからのぞく。夜も更けて外はすっかり暗かったが、廊下の電灯が来訪者の姿をありありと映し出していた。

 見たことのない人だ。これが男性だったら、はーいと言ってしまったので、居留守を使うことができないと焦っただろうが、来訪者は女性だった。これで中年のおばさんだったり、老人だったりしたら、押し売りや宗教勧誘を疑ったが、来訪者は比較的若めの、これから働き盛りといった感じの、いや、末に働いてきてクタクタな様子のOLさんだった。

 ので、私は簡単にドアを開けた。

「こんばんは。あの、どうにかされましたか?」
「え、女性? えっと、そのここに男性はお住まいでなかったですか?」

 彼氏か誰かの住んでいる号室を勘違いしたのだろうか? 自分しか住んでいませんが、と答えると女性は顎に手をあてて何か考え込みはじめた。

 それを待っている間の冷気はすさまじく、さきほどのこともあって、おもわず体がお湯の中に戻ろうとしている。しかし来訪者がいる前で、裸になるわけにも、そもそもお風呂に入るなんて奇行をするわけにもいかない。

 とりあえず中で話をしたほうがいいだろうか? いやでも結構散らかってるし……。近くにカフェとかあったかな? いやそもそももう開いてないか。なんて考えているところでOLの女性は口を開いた。

 ので、私も思わず息を吸い込んで、止めて、身構える。

「下の階のものなんですけど、ドタバタとうるさくて、はっきりとは聞こえてなかったですけど、なにか苦しんでいる? ようでしたので、声も低かったですし、男性が筋トレでもしているのかと思ったのですが……。私も女性ですからもし男性だったら怖いなと思いながら、勇気を出してきてみたのですが、出てこられた方が女性だったので……私の勘違いだったかもしれません」

 号室が違ったとか、なにか外で工事しているとか、近くに大学もありますし、学生たちが騒いでいたのかも、などと推理してくれている横で、私は顔を覆い隠さずにはいられなかった。

「すいません。それ、私です……」

 お風呂掃除をしていて、と言い訳をしたかったが、お風呂掃除は実際にはしていないし、なんでお風呂掃除でドタバタする必要があるのかと聞かれたら答えられる自信もなかった。

「次から気をつけます」と何度も頭を下げると、OLの方は「気にしないでください。あっいえ、もちろん次回からは静かにするように気遣ってくださるとありがたいですけど」と困ったように言いながらも許してくれた。

 私は彼女がドアを閉めてもしばらく顔をあげられなかった。

 こんなに心臓の鼓動を感じたのは運動会で全力ダッシュして以来だ。

 それもこんなバックバクのやつは。

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