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ショートショート12 私の夫はナイスガイ

 私の夫はナイスガイだ。車道側を必ず歩いてくれるし、重いものは率先して持ってくれる。土日休みの日は、どちらかの日は必ずと言っていいほどデートに連れ出してくれる。若くして成功した社長さんなのもあって、お金はたくさんある。いつも、必要なものは言えば買ってくれるし、言わなくても欲しいなと思ったときにはすっと出してくれる。毎月十数万のお金をお小遣いにもらってもいる。稼いでいるのに十数万しかもらえないのは、家庭にずっといる女性ではなくて、いろいろなところで吸収して、自分を高める女性でいてほしいからだと、彼はいつも私の職場の愚痴を文句ひとつ言わずに聴いてくれた最後に、私にいやらしさのない、ぬくもりのあるボデイタッチをしてくれながら言ってくれる。
 どこに出しても恥ずかしくない、いい夫だ。
 でも、どこに出しても恥ずかしくないからといって、どこかに行かれては困る。
 私は電柱の陰から、他の女と手をつなぐ夫を見ていた。あの女、見たことある。たしか会社のCMに起用された女優さんだ。夫も、あんな風に若くてフレキシブルな女性のほうが好みなのだろうか。服装や化粧は古くなったらよほどのお気に入りのものでないかぎり新しいものを買っているし、常に流行と次に来るもののいくつかを使っている。家事の全般は時間があるときに学びにだって言っているし、苦手だったスポーツだってはじめた。ジムにだって通って、ぜい肉がつかないようにだってしている。
 でも、女優さんにはかなわないのだろうか。彼女らは、服のプロ、化粧のプロに毎回きれいにしてもらって、多くの協賛会社から流行の最先端をもらっているどころか、自分がその流行のはしりになろうとすらしている。交友関係も人間レベルの非常に高いもので、私の周囲の人間なんてきっとかすんでしまうだろう。
 私と結婚してくれることになったとき、どうして私みたいな人を選んだか尋ねたとき、多くの愛の言葉とともに幸せにすると約束してくれたくせに。あれは嘘だったのか。
 飛び出していって、問いただしたい気持ちをぐっと抑える。今、問いただしてもきっと、付き合いでご飯を食べに行っているだけだとか言って躱されてしまう。決定的瞬間をとらえるのだ。
 カメラを持つ手に力が入る。芸術センスを高めるために始めたが、まさかこんなところで役に立つ日がくるなんて。毎月お小遣いでもらっている分じゃなくて、自分で働いて貯めたお金で買った結構いいやつ。一眼レフとまではいかないけど、それでも電気屋に置いてある中では高く、最新型に限りなく近いものを選んだ。
 ホテル街に向かっていくのだと分かると、滑らないようにと最先端の技術と良質な素材で作られたグリップが嫌な汗で濡れている。
 女優のほうが、恥ずかしそうに戸惑っている。しかし同じ女の私には分かる。あれは、本当は今すぐにでも行きたいけれど、軽い女だとは思われたくないというプライドが隠されている顔だ。
 夫はそれを見透かしたかのように、勢いよく抱きしめてキスをした。しかもそのときにパパラッチなどに撮られても隠せるように、一瞬で木の影、死角に追いやって。だから私はその瞬間を逃してしまった。
 キスは短め。そうして、トロンとした瞳の彼女の腰を抱え、ホテルに入っていくその瞬間にもう一度シャッターを押した。わざとウォー! という声を出して。
 そうしたのには訳があった。ホテルに入っていく写真をただとるだけでは、顔が映っていないので意味がない。人間は声がした方につい顔を向けてしまう傾向がある。だから私はそうした。彼のために磨いてきた自分という殻をぶちやぶる快感があった。それは出来上がったブロックの城をわざと倒して見せたり、砂山を足で踏みつぶしたときの感覚に似ていた。
 動揺している夫の首根っこを掴んで、近くの公園まで引きずる。相手の女性はオロオロとしていたが、あなたも来なさいと私が言うと、おとなしく着いてきた。下を向いているのは、おびえているからではなく、地面を引きずられている夫を見ているのがまた憎らしい。
 公園に着き、二人をベンチに座らせる。本当は二人を並んで座らせたくはなかったけれど、私は間に座るのはもっと嫌だった。決していちゃついたりしないよう、私は肩幅に足を開いて腕を組み、いわゆる仁王立ちの姿になって、二人を見下ろす。
「どっちから手を出したの?」
 こんなこと、聞いたって仕方がなかった。でも、何から始めたら正しいのかは分からない。引きずって公園まで来る途中によぎったのは習いに行っている料理教室のやり方だったが、名前と得意料理と作れるようになりたい料理を言って自己紹介だったので、さすがにそれはやめた。私は夫のことを誰より知っているつもりだし、彼女のこともテレビなどで見て知っている。私が誰であるかは、この状況で伝わっているだろうから、わざわざ言う必要もない。
 すっ、と手が挙がる。彼女の方だ。考えはしていたけれど、複雑な感情になる。夫が手を出したのでないということにどこかホッとする部分もあれば、なびいてしまったという事実が重くのしかかってくる。この女のどこが良かったのか、それとも私のどこがいけなかったのか。彼女を見ていると、イライラが抑えきれない。
 さらにいら立たせたのは、夫が彼女の挙げた手を下ろさせたことだ。
「今回はどっちから手を出したなんて関係ない。どっちにせよ、妻を傷つけてしまったのは事実だ」
 私は、いまだ触れたままの二人の手を見て、胸のあたりから円柱のような嫌悪感が喉にせりあがってくるのを感じる。いっしょに上ってきた胃液を公園に吐き捨てた。
「公園に、唾を吐いちゃいけないよ」夫は、土を掘って、私の胃液を埋める。少し手が汚れてしまったことと、それが私のせいであることに少しばかりもしわけなさを感じ、洗ってくるようにと言おうとも思ったが、どうして私が申し訳なさを感じなければいけないのだ。
 座りなおした夫。彼女はハンカチを指先に当て、優しくふき取る。
 ありがとうと、小さな声で言う夫。その態度はまるで私がここにいてはいけないような、二人の間でしか説明がつかないような雰囲気があり、少し気圧される。
「本当にごめん!」
 立ち上がった彼は大声でそう言い、同時に頭を下げた。私はさらに気圧され、実際に一歩後退する。
 両手をピンと伸ばして体の横につけ、背中を九〇度曲げ謝る夫。それに並んで彼女も同じようにする。二人にそうされると、なんだか私のほうがお邪魔虫のような気がしてきてしまう。
 気を強く持たなくては! と自分を再度怒りに奮い立たせたは良いものの、
「二人とも顔を上げてください」という声が少し穏やかな口調になってしまう。奮い立たせた怒りも、どこか形が変わっていて、上手く胸の中にハマってくれず、これならない方がマシのような気がしてしまう。
 それを悟られてはいけないと、私は両足で強く大地を踏みしめ、両腕を持つ自分の手に力を込める。
「聞きたくないと思うけど、聞いてほしい」
 彼の空気に流されてはいけないと思いつつも、ここでその申し出を断ってしまえば、なんだかこっちが子どもみたいな気になってしまう気がする。せめてもの反抗と、私は声は出さず、ただ頷いて返した。
 彼は簡潔にまとめて話した。時には身振り手振りも加えながら。ときたまに空中にパワーポイントで作られたスライドや、グラフみたいなものが見えてくるかのような自然と手慣れた感じで、たまにこちらに事実確認といった形で同意を求めてきながら。
 彼は誰に対しても礼儀正しくしようとするところがあった。それで、彼のことを好きになってしまう人は少なくなかった。かくいう私もその一人で、どうしても彼を手に入れたかったから、ちょっとずるいこともしたし、一歩間違えればストーカーまがいのこともした。群がってくる女性に対して常に上のマウントをとれるように、勉強もしたし、苦手だった礼儀作法だって身に着け、習い事だって精を出した。全て、彼の身の丈に合うような女性になりたくて努力をした。
 彼はそんな私をねぎらうような言葉もいくつか並べた。それは、彼の口が上手いからか、なぜかこんな状況でも胸の中にストンと落ちてきた。嬉しかったのは、彼がこのことで君と別れたくないと、わたしの肩を掴んで、しっかりと目を見て言ってくれたからだ。続いた、「好きだ、愛してる!」という言葉にはなぜか彼女も泣いていた。
 私ははじめ、それを自分が好きな人が、決して自分の方を振り向いてくれることはない悲しみの涙だと思っていたが、彼女は、「おめでとうございます。わたし、感動しました!」と言う。彼も、「彼女は本当にいい人だ。僕なんかにはもったいない」なんて言い始めるし、「本当にそうですよ。私がもらいたいくらいです」と腕に豊満な胸を押し付けてくるものだから、踏みしめた両足に力が入らなくなる。
 それは困るなーと微笑む夫。照れくさそうにこちらを見るその顔に愛おしいと感じてしまったが最後、私の怒りはどこか遠くに行ってしまった。
「あの、不躾なお願いだとは思うんですけど……私に料理を教えてくれませんか?」
「え?」
「これから先の芸能界は顔だけじゃダメなんです。何かしら、影響力や能力を持っていないと! 正直、旦那さんに近づいたのも、なんか報道になればいいなって思ったからなんです。ホテルに行こうしたのは今日が初めてで、身体の関係はありません。正直あんまり好みじゃないんです。……ってそんなこと言ったら失礼ですよね。すみません。本当にごめんなさい! 旦那さんはとても素敵な人だとは心の底から思ってます!」
 頭を何度も下げて謝る彼女は夫とは違って上手い説明とは言えなかった。けれど私は、その必死さにどこか自分を重ねてしまい、夫の「彼女もとても素晴らしい女性、いや、人なんだ。君さえよければ仲良くしてあげてほしい」という言葉に負けたという体で私は、それを了承した。
 まったく、私の夫はとんだナイスガイだ。

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