
自分、もしかして『山月記』の虎ルートを辿っているんじゃね?
最近、ことあるごとに思い出すのが、中島敦『山月記』に出てくる虎さんだ🐯
というのも、私の人生は今まさに、「山月記の虎ルート」を辿っているような気がするからだ。
最初に、山月記のざっくりとしたあらすじを書いておこう(知っている人は飛ばしてください)。
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むかしむかし、中国に李徴(りちょう)という青年がいた。
博学で才気煥発な彼は、若くして官吏の登用試験に合格。順風満帆な人生を歩むかに見えた。
しかし李徴は、役人としての人生に甘んじることができなかった。
「詩人として大成したい」という野心を持っていたのである。
その思いを捨てきれず、李徴はついに役人を辞職。
それ以降、人との交流を断ち、ひたすら詩作に励む。しかし、なかなか芽が出ず、次第に生活は困窮する。
妻子を食わすこともできず、ほとほと困った李徴は、やむなく再び官吏になる。
だが、かつての同僚たちは出世し、彼らの下命を拝する立場になってしまった。
このことは李徴のプライドを大いに傷つけた。
そんな生活に耐えられなくなった李徴はある日、出張した折についに発狂する。
闇夜の中へと駆け出し、そのまま戻ってくることはなかった。
実はこのとき以来、李徴は人喰い虎に変貌してしまったのだ…というのが物語の前半のあらすじ。
後半は、(さらに超ざっくりと書くと)李徴のかつての友人、袁惨(えんさん)が遠出した際、たまたま虎に変貌した李徴と遭遇し、李徴が自分の境遇と後悔の思いを涙ながらに話す、といった内容だ。
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この李徴の境遇、とても他人事には思えない。
冒頭に書いたように、私自身の人生と重なるからだ。
私もかつては役人だった。
現代の日本で役人になっても、大して金持ちになれるわけではない。だが、少なくとも安定した生活は約束されていた。
だが、働くうちに、役人としての人生にどうしても満足できない自分がいることに気づいた。
役人になってから数年後(途中、大学院進学という寄り道?をしつつ)、ついに退職するに至る。
文章を書いて生きていきたいという思いを、どうにも捨て去ることができなかったのである。
役人を辞めたはいいものの、何かあてがあるわけでもない。
ひとまず糊口をしのぐため、ライター業なるものをはじめてみた。
ありがたいことに、最近ではいろいろな企業から案件をもらえるようになった(守秘義務の関係で詳細は書けないが…)。
ついでにブログもはじめてみた。
わずかではあるが、こちらでも収益を少しずつ得られるようになった。
李徴とは違い、幸い(いや、不幸なことに?)養うべき妻子はいない。
そのため、少なくとも自分一人を食わせることは何とかできている。
しかし、このままでいいのか?という思いもある。
まずは金銭面の問題だ。
今より収入を増やすことはできるが、劇的にアップする見込みは小さい。
年収換算で、頑張ってもせいぜい(若手の)公務員と同レベルだろう。
また、今の仕事が本当に自分のやりたいことなのか?あるいは「やるべきこと」なのかという問題もある。
確かに、いろいろな仕事を請け負ってきたことで、文章を書く上での知識やスキルは多少身についた。
だが、逆に言えばそれだけのことである。
ここで悪魔のささやき(?)が聞こえてくる。
「また公務員になればいいじゃないか」
真剣に公務員試験の勉強をしている人を怒らせるかもしれないが、はっきりと言おう。
再び公務員試験を受けて合格する自信はある(国家総合職をのぞく)。
新卒時、そこまで本腰を入れて勉強したわけではないのに、某県庁に10番で受かった程度には「お勉強」はできる方だからだ(その割に「仕事」はできなかったが…)。
年齢制限的にも、まだギリギリ大丈夫だ。
あの場所に戻れば、再び安定した生活を手に入れられる。
公務員にこだわらなくても、民間企業に就職する手もある。
その場合も、年齢的にはおそらく今がギリギリだろう。
しかし、である。
役所という組織は、私にとってどうにも狭すぎた。
きっと民間企業に就職しても、同じ思いを抱くに違いない。
こう思う原因は、きっと私の中にある(李徴が言うところの)「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のせいだ。
情けないことに、この歳になっても、こうした幼稚な感情を消し去ることができないでいる。
もちろん今の時代、働きながら執筆することだってできる。
原則副業禁止の公務員であっても、執筆に関しては認められることが多い。
だが、フルタイムで働きながら「書く」ことに心血を注げられるだろうか。
実際、そうしている人はいくらでもいるが、果たして怠惰な自分にできるのか、甚だ心許ない。
…なんてことを考えていたら夜が更けてしまった(というか朝になりつつある)。
なんだかまとまりのない文章になってしまったが、久々に『山月記』を読んだら、李徴に感情移入しすぎて書かずにはいられなくなった次第だ。
最後に、自分の心の中を言い当てられたと感じた一節を引用したい。
今思えば、まったく、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費してしまったわけだ。人生は何事を為さぬにはあまりにも長いが、何事を為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己のすべてだったのだ。(太字引用者)
もし私に「僅かばかりの才能」があるのなら、空費したくはない。
とか言いながら、こんな夜更けに誰も読まない文章を書いてしまうことこそ、「僅かばかりの才能の空費」にほかならない気もする。