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その本は読まれるのを待っているけれど

本棚は思考の網目そのものである。

本は開かずとも、そこにあるだけで人に影響を与えるものだ。だからこそ本棚は、全ての本の背が見えるように使わなければならない。

本の背の前に本を積んだり、物を置いたりしてはいけない。今の自分の思考を作るもの、これから考えようとしていることを、つねに一覧で見られるようにしておくべきだ。

そんな主張をどこかで読んだことがあった。
その主張に、私はおおむね同意している。

電子書籍はとても便利だけれど、実物の本には敵わないものがある。
部屋の中で、圧倒的な情報源として、そこにあること。
人間に対して物理的にも、精神的にも大きく影響する、その存在感だ。

それは「早く読め」という圧力ではない。
彼らはじっと、「その時」が来るのを待ってくれているのだ。

本がスマホの中でデジタルな情報として集約されていると、いつのまにかその存在を忘れてしまったり、ついSNSを開いたりしてしまう。それでも持ち運びやメモが楽なので、移動中にはよく利用する。

でもやはり、実物の本には敵わないなと思う。

私の思考、
今の私を作ってきた言葉たち、
勢いで買ったけど、まだ開いていない本。

それらが眠る本棚が日常の風景の中にあるということは、知的な旅の途中で、私がいる現在地をいつでも確認できるということだ。

電子書籍で出会ったいい本は、わざわざ書店で買い直して、本棚に置く。良い作品は、知の網目に織り込んで、見えるようにしておきたいと思うからだ。

そんな本に出会えた時のよろこびは、いくつになっても色褪せない。

そんな考え方においては、積ん読は決して悪いことではない。

買ったはいいものの、なぜか読み進められない本は、本棚の影にそっと忍ばせておく。彼らは寂しげな背中をこちらに向けて、じっとその時を待っている。

彼らの姿を日々見つめる私は、多少の後ろめたさを感じながら、時と思考が熟するのを待つのだ。

買ったということは、自分の琴線に少なからず触れたということであるから、手に入れたことは無駄ではない。

ただ本には、読むタイミングというのが存在する。これはあきらかに世の真理だ。今じゃない、と感じたならば、それは堂々と積んでおくべきなのだ。

積ん読本はきっといつか、突如として輝き出す時が訪れるのだ。


しかし私は、近頃しばらく読書に没頭できていない。知的な営みに対して冷静になっている今、(というより、だらけている今)本当にそんな時は訪れるのか?一生訪れなかったら?という疑念が生じている。

怠慢が高じ、なんの知的好奇心もなくなり、社会の歯車としてただ時間を浪費する人間になったら、私はせっかく買った本を、たぶん開くことはないだろう。

読まれるのを信じて待っている本たちは、その願い叶わず死んでいく。本棚は思考の網目ではなく、むなしい墓場になり代わってしまう。

それではあまりにかわいそうじゃないか。

私は今しがた、急いで本棚の積ん読本だけを引っ張り出してみた。

せっかくの機会なので、いい具合に熟成が進んだ私の積ん読本の一部をリストアップしてみたい。たぶんどこにも、需要はないだろうけど。


旧約聖書 「出エジプト記」
シェイクスピア『ヴェニスの商人』
カミュ『シーシュポスの神話』
ドストエフスキー『永遠の夫』
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』
谷崎潤一郎『蓼食う虫』
澁澤龍彦『洞窟の偶像』

なるほど。こうしてみると、筋金入りの積ん読本たちという感じがする。ヴィンテージワインさながら熟成を重ねて、古本屋のほこりと本棚の木のにおいが染み付いている。

改めてこれらの本たちを眺めてみて、とても魅力的に感じる反面、まったく読み通せる気がしない。この繰り返しの毎日の中で、「出エジプト記」を読みたくなる日は、一体いつ来るんだろう。

どうやら私の知の旅は始まったばかりみたいだ。
時が熟するのは、まだずっと先のことだろう。

奇跡的にこの記事を読んでくれているあなたも、時々積ん読を引っ張り出してあげてほしい。読まなくてもいいから、本棚を時々眺めて、自分の場所を確認してみてほしい。そうすると少し、落ち着いて自分を振り返れるかもしれない。

読書の秋にお送りする、読まれない本の話でした。

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