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谷崎潤一郎を読まないのは


言葉は時々、人を縛る呪いになる。



大学生の頃、フランス文化論ゼミに所属していた。
それまでフランスの文化について、さほど深く学んでいたわけではないけれど、研究でフランス語が必要になったことと、担当の先生が指導熱心だったために選んだゼミだった。


いわゆる「キツい」ゼミとして学内で有名だっただけあって、こなす課題も多く、ハイレベルな要求に耐えられずに離脱した人もいた。

私はそんな中でも、先生の個性的なキャラクターと面倒見の良さに心惹かれ、誰よりも真面目にゼミに取り組んだ。


私が文学の魅力に気づいたのも先生のおかげである。

子供の頃は本をよく読むタイプではなく、ましてや古典文学など、難しくてよくわからないと思っていた。

しかしフランス文学を語る先生の熱い語り口調から、何世紀もの時を超えて今もなお読み継がれる古典文学に、すさまじい引力を感じ始めた。

そのころから少しずつフランス文学を読むようになり、私はあっという間に、深く芳しい古典の世界に絡めとられていった。



あらゆる文学作品を読むうちに、どうせなら、日本の古い純文学の世界も知ってみたいと思い立った。

思えば、三島由紀夫を熱心に読み始めたのはこの頃からだ。

世界の一部を拡大させ、凝縮させる言葉の力。

誰もが経験する名もなき感覚を、鮮やかに縁取る表現の力。

言葉というものの恐ろしさを知ったのは、三島文学においてだった。 

『仮面の告白』『金閣寺』『美徳のよろめき』『永すぎた春』…

名作と呼ばれる作品を読みながら、行間に覗く三島の強烈な自意識と人生、歪な欲望とセクシュアリティ、美への異常な執着といった、未知の領域を目の当たりにしていた。


文学を読むようになってから、読んだ本のことを先生に話すのが楽しみの一つになった。スタンダールの『赤と黒』を読んだことを伝えると、次は同じ作家の『パルムの僧院』を読むといい。心理描写がすばらしい、と教えてくれる。

ドストエフスキーに興味を持っているが、あまりの大作に怖気づいていると話すと、「あなたなら読めるよ」と励ましてくれた。

そんなやり取りがうれしくて、私は逐一読書報告をした。



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私の好む作家や作品の傾向が分かったのか、ある時先生は私にこう言った。

「あなたはロマン派なんだね。三島由紀夫が好きなら、谷崎潤一郎も読むといいよ。まぁ要は、変態なんだよ。」


私はいつの間にか先生の中で、「変態」扱いされていた。


その頃にはある程度、文学的嗅覚を身に付けていた私は、谷崎の小説から何やら妖しい香りがすることくらい気付いていた。

まぁ興味を持っていたことは認めるけれど。まぁそりゃ、年頃だし、それなりにいろいろね……



いやいや、そんな風に決めつけられても困る。先生は私の何を知っていると言うんでしょう。そもそも三島や谷崎といった名だたる文豪の作品を、変態文学扱いするとはいかがなものでしょうか。いや、まぁ彼らは変態なのだけど。

私は笑ってごまかしつつ、ちょっとショックを受けていた。その時ばかりは、先生の勧めに乗らなかった。興味を持っていながら、谷崎には決して手を出さなかった。



大学を卒業してしばらくたつが、未だに先生にはことあるごとに近況報告の連絡をしている。当時と変わらず、今も私は先生を人として、研究者として尊敬しており、心から感謝している。

しかし、だからこそ先生の言葉は「呪い」になってしまったのだ。

「変態」を認めたくないがため、私は未だに谷崎潤一郎を読んでいない。
そう、興味津々のまま。


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