見出し画像

よすがの椅子

建築家が椅子をデザインしたがるのは、椅子が小さな建築だからだといいます。

梁や天井などの、水平方向にまたがる「荷量」。
支柱などの、垂直方向に荷量を支える「支持」。

この二つの連続が建築の本質で、椅子はその関係性の最小単位と言える。

そんなことを、芸術学の講義で習ったことを思い出しました。

椅子と建築、その役割としての共通点は、「場」を生み出すこと。椅子はそこにあるだけで誰かの場所を生み出している。


腰を落ち着ける。
心を落ち着ける。
長い時間そこで過ごせること。
体よりも、頭を動かせる場所。

---



やわらかくて、丈夫で、くつろげて、おしゃれ。
それが椅子を買うときの条件でした。

フローリングであぐらをかいて座る生活を変えたくて、愛着のわいた家具たちを思い切って捨てて、あこがれのダイニングテーブルとウィンザーチェアを買いました。

ウィンザーチェアはとても丈夫で、イギリスのあたたかい家庭や食堂にあるイメージを借りて、部屋にぬくもりをもたらしてくれた。

ただ、座面は硬くて、背もたれの角度が急だ。
この椅子に座って作業をしたり、本を読んだりするのはなかなかにつらい。

楽に長く座ることができ、インテリアにもなる椅子も買わなければと思い立ちました。


次こそはぴったりなものをと思って、ずいぶんと探しました。
歩きに歩いて家具屋さんをめぐり、ときどき溺れ沈みながらネットの海を泳ぎ回りました。

アメリカのClarin社のフォールディングチェアに出会ったのは、中目黒の家具店。お気に入りが見つからず、諦めかけていた時でした。

Clarin社は1925年に創業した、アメリカで最初のフォールディングチェアを製造したメーカーで、製品は「クラリン・チェア」として長く愛されています。

クラリン・チェアは、言わば折りたたみ椅子です。アメリカでは学校やスタジアムになどの公共施設にもあるらしい。畳んでコンパクトに移動させることができる一方で、安定感が抜群で、座り心地もいいことから家庭でも利用されてきました。

お店で見たクラリン・チェアは新しいシリーズのもので、色が好みではなかったので、ネットで探しなおしました。
おそらく何年か前のシリーズの、大好きな色のものがたまたまオークションに出ているのを見つけ一目惚れして、思い切って落札しました。


この椅子が来てから、部屋の雰囲気と私の生活が大きく変わりました。

ボルドーの色はラグとよく合っていながら、ほどよく部屋のアクセントになってくれている。スチール部分はゴールドと黄土色の中間のような色で、インダストリアルな雰囲気もありつつ高級感も感じさせる。
ずっしりと重いため移動させるには少し不便だけど、安定感があるから家で使う上ではあまり気にならない。心地よい反発のある座面は、安らぎ、ゆっくりと考える場所を生み出してくれています。

---


『ウエハースの椅子』という、江國香織の小説がある。

小さくて、綺麗で、決して誰も座れないウエハースの椅子。それを「幸福」の象徴とした江國香織は、椅子の場所性をとらえながら絶望を描いたのだろうと思う。

甘い香りがして、たしかにそこに幸せな空間を作っているけれども、人はそこに腰を落ち着けることはできない。
その場所の外側からただ見てさえいれば、安全で確かなものであること。

なんという表現力だろう。



---

椅子はウエハースであってはならないけれど、その空間をどんなものにしたいかと考えた時に、椅子はとても大切なものなんだと学びました。

長い時間滞在するため、こまめにレイアウトを変えるため、人が集まるため…
それぞれの空間の目的や性質によって、選ぶべき椅子のデザインと機能は変わってくる。

部屋によく似合っていて、お気に入りの空間を生み出してくれる椅子を迎えられたことは、今年のよかったことのひとつと言えましょう。

思えばずっと、早い鼓動を鎮めて、深く息を吸って落ち着ける空間が必要だったのかなと気づきました。

椅子という小さな建築を部屋の中に置くことで、身と心のよすがとなる空間をつくること。

少し背伸びしてでもいい椅子を迎えることは、本当の意味で、おうち時間を充実させてくれるのかもしれません。



この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

買ってよかったもの

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?