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デュ・バリー伯爵夫人とレース

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


ルイ15世の最後の公妾

ー ジャンヌ・ベキュ

 数多くの愛妾をもったルイ15世は奔放な私生活で知られています。もっとも有名な公妾はポンパドゥール侯爵夫人(女侯爵)ではないでしょうか。

 このMadame la Comtesse Du Barryデュ・バリー伯爵夫人( 1743-1793 )はそのようなルイ15世の晩年に最後の公妾として国王を魅了し、王の死の年まですでに崩御していた王妃の代わりとして宮廷の女主人としてヴェルサイユに君臨しました。

 デュ・バリー伯爵夫人は1743年にヴォークルールに私生児として生まれました。彼女は平民でも最下層の出身でマリー=ジャンヌ・ベキュが本名なのです。
(※ フランスでは貴族は名前と姓のあいだにde〜のという単語が入ります)

 彼女の人生を変えたのはオート=ガロンヌの小貴族ジャン=バティスト・デュ・バリー=セレス( 1723-1794 )でした。パリのモード店でお針子をしていたジャンヌを高級娼婦のような稼業に引き込んだのは斡旋業を営んでいたデュ・バリー=セレス伯爵でした。

 ジャンヌはこの稼業で、上流貴族を相手に機知に飛んだ会話術や貴族的な作法を吸収していきました。

 1768年に宮廷への御目見の機会を得るためにデュ・バリー=セレス伯爵の兄のギヨーム・デュ・バリー伯爵と形ばかりの結婚式を挙げ、晴れて貴族の婦人としてヴェルサイユに祗候したのでした。当時は公妾となるには後見人によって国王への披露が儀礼として必要とされていたのです。

フランソワ=ユベール・ドゥルーエの描いた素描『 デュ・バリー夫人の肖像 』


伯爵夫人の素顔

ー デュ・バリー夫人の会計簿

 パリの国立図書館には1760年代の終わりから1770年代にかけてのデュ・バリー伯爵夫人への請求書を合本した資料3冊が所蔵されています。

 請求書の商品は多岐にわたり、絵画・彫刻・家具・調度品・タピスリー・食器・銀器・衣裳などさまざまです。

オーギュスト・パジュ作の『 デュ・バリー夫人の胸像 』 ( 1773年 )
ルーヴル美術館蔵

 所蔵品番号8157は衣装に関する請求書をまとめたもので、デュ・バリー夫人自身だけでなく侍女や使用人などの衣裳とそれに使われた生地がひとつひとつ詳細に記録されています。

 なかにはルイ15世から下賜された小姓のザモールの衣裳についての請求書もあります。ザモールはベンガル生まれで、奴隷商人によってフランスへと連れてこられたのでした。彼のことを伯爵夫人は生涯《 アフリカ人 》だと思い込んでいたようです。

 請求書には、【 9オー ヌ( 当時の長さの単位 )の アングルテール・ア・ブリッド 】の名称が見られます。また【 ブリッドとレゾーのポワン・ダングルテールを使用した頭飾り 】、【 1と1/4オーヌの混成アングルテール 】のように使用されたレースとそのグラウンドについて詳細に記述されているのです。

 アングルテールとはフランス語で《 イギリス 》を意味していますが、ブリュッセルで作られたレースのことでボビン製とニードル製がありました。

 《 ブリッド 》はレースのモチーフを繋ぐバーのことで、《 レゾー 》はメッシュ状の網目地のことです。1770年当時にはレゾーのレースが一般的で、
ブリッドは1740年代以降は余程の注文がない限り使用されませんでした。

 デュ・バリー伯爵夫人はブリュッセルレースを好み、そしてそれは特別にあつらえられた特注品だったのです。

ー 画家ヴィジェ=ルブラン夫人の回想録

 18世紀後期から19世紀前期にかけて活躍したフランス人女流画家のÉlisabeth Louise Vigée-Le Brunヴィジェ=ルブラン夫人 ( 1755-1842 )はフランス革命の前夜、肖像画を描くためにデュ・バリー夫人がルイ15世から与えられたルーヴシエンヌの城館に滞在しました。

 革命後、長い亡命期間を終えたヴェジェ=ルブラン夫人はパリに戻るとルーヴシエンヌの城館近くのシャトー・デ・スゥールスを入手し、ここに亡くなるまで居住しました。

ヴィジェ=ルブラン夫人の描いた『 デュ・バリー夫人の肖像 』 ( 1782年 )
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

 彼女はその回想録のなかでデュ・バリー夫人についても触れているのですが、

 「 1786年、私はデュ・バリー伯爵夫人からの肖像画の依頼を受けて彼女の所領であるルーヴシエンヌをはじめて訪れました。昔からこの方のお名前は多くの人々の口の端に上せたものですから、私はこの国王の元公妾であった人物にとても興味をもっていたのです。
 夫人はこの時すでに年の頃は45歳くらいでしょうか。背が高い方でいらっしゃったが高過ぎず、彼女は少し乳房が豊満過ぎるようでしたが美しい胸をしていらっしゃった。その容貌は今もなお魅力的であって均整のとれた優雅な面立ちでした。髪はまるで子供のそれのように滑らかな巻き毛で灰色がかった金色の髪をしていて、彼女からはほんの少しだけ容貌の衰えが垣間見えたのでした。」

ヴィジェ=ルブラン夫人の 『 回想録 』より

 と画家らしい生き生きとした素晴らしい筆致で、当時すでに盛りを過ぎていたデュ・バリー夫人の様子を描いているんですね。

ヴィジェ=ルブラン夫人の描いた『 デュ・バリー夫人の肖像 』 ( 1789年 )
個人蔵

 そして、続いて下記のような面白いことを書いています。

 「 夫人は私に対して大きな恩寵を与えてくださり、常にとても優雅で上品なお姿に接しました。仕草やお考えは大仰なものではなく、それはとても自然体でいらっしゃったのです。彼女の顔立ちはとても蟲惑的でしたが、それは常にまどろむような恍惚の眼差しをしていたためでしょう。また、夫人の話し方には少し幼稚なところがありとても年相応の方には思われなったのです。」

ヴィジェ=ルブラン夫人 『 回想録 』より
ヴィジェ=ルブラン夫人の描いた白いモスリンを着た『 デュ・バリー夫人の肖像 』 ( 1781年 )
フィラデルフィア美術館蔵

 そして続けて、デュ・バリー夫人が多くの愛人から贈られた贈り物で飾られた豪奢な空間に住んでいるのにもかかわらず、普段はとても簡素な生活を送っていたこと。下着風のペルカル木綿もしくは白モスリンの服を夏でも冬でも着ていた事などが書かれ、その後に。

 「 ルーヴシエンヌの城館に滞在中、私はデュ・バリー夫人の言葉や行いの中に彼女の優しい一面を幾度となく感じることとなりました。彼女は領地の住民に多くの慈善活動を行い、それによりこの地に住む全ての貧しい人々が救済されたのでした。私もその慈善活動に同道する機会があり、よく夫人に伴われて恵まれない人々の家々を訪れたものでした。私は今でもよく思い出すのです、怒りに震える聖女のような姿を目の当たりにしたときのことを。
 ある日、とある貧しい家を訪ねるとその家の母親が出産したばかりなのに身の回りのものにも事欠く有様で、その母親に向かって夫人は『 何てことなのでしょう! ここにはシーツもワインも、スープもないのですか 』と尋ねたのです。すると貧しい母親は夫人に『 あぁ奥様、そうなのでございます。ご覧の通りここには何もございません 』と返答するのでした。
 急ぎ私邸へ使用人を呼びに戻った夫人は、命令を実行しようとしない侍女や使用人たちを集めて一喝したのでした。デュ・バリー夫人の彼らに対する怒りのあまりの凄まじさをどのようにお伝えするべきか、私はその情景を巧みに表現する術を知りえないほどでした。
 そして即座にシーツの詰まった箱が母親の家へ届けられ、同時にボルドー産のワインと温かいスープも届けられたのでした。」

ヴィジェ=ルブラン夫人 『 回想録 』より

 この後に、デュ・バリー夫人と愛人関係にあったブリサック公爵との挿話が綴られています。

 盗まれたダイヤモンドを探し出す為にイギリスに渡っていた夫人が、革命の嵐の吹き荒れるフランスに戻ってくるのです。それはルーヴシエンヌの城館に匿っていたブリサック公爵とただ一目会いたいがためのものでした。

 その直後に公爵は彼女の目の前で逮捕されてしまうのです。オルレアンの牢獄へ連行される途中に怒り狂った市民によってヴェルサイユで虐殺されてしまい、その血だらけの首がデュ・バリー夫人の元へ届けられるという言語に絶する壮絶な体験をした夫人の最期が書き綴られています。

 「 この恐怖の時代に毅然とした態度で非業の死を遂げた多くの女性たちのなかで、デュ・バリー夫人はただひとり処刑台を直視できなかったのです。彼女は処刑台の上で命乞いをし泣き叫び、その哀れな姿にさしもの冷酷な群集も彼女への同情に苛まれました。それに動揺した死刑執行人が慌てて刑を執行したとのことです。
 もしこの時期に亡くなった犠牲者たちがあれほどまでに誇り高く勇気をもって死に向かわなかったならば、デュ・バリー夫人のようであったならば恐怖政治はもっと早くに終焉していたであろうと私は確信するのです。」

ヴィジェ=ルブラン夫人 『 回想録 』より


 1793年12月8日、デュ・バリー伯爵夫人はパリの革命広場( 現在のコンコルド広場 )に設置された断頭台の露と消えたのでした。

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