社員のボトムアップでレノファ山口のパートナーになった②
最近、この活動をはじめてから会った人には、積極的ですね!と言われることもありますが、元来は引っ込み思案で、なるべく前には立ちたくない、目立たないように生きてきた人間です。そんな人間がなぜこの活動のチームリーダーをやるようになったのか?もう少し背景についてお話させていただきます。
サッカーと挫折とレノファ山口
話はさらに遡ります。サッカーを始めたのは小学3年生。防府市の中関サッカースポーツ少年団で始めました。当時防府市内では牟礼FCと中関SSSが2強を争っていました。牟礼FCには、のちにガンバ大阪に入り、現在は、レノファ山口の試合解説もされている林晃平さん、サンフレッチェ広島に入った吉田幸男さんもいました。
小学校6年生の時、市内で選抜チームを組んで神戸の大会に出ることになりました。その頃は、そこそこ上手かったのか、監督から自分に声がかかりました。チームから1~2人しか出られない光栄なチャンス。ふつうなら喜んで参加します。ですが、この時、引っ込み事案な性格がじゃまをして、このチャンスを断ってしまいました。
これを機にサッカー選手としては下降線をたどります。中学校ではチームメイトからいじめを受けることも・・。ついに高校では続けませんでした。
高校を卒業して会社に入ると、もう一度やろうと当時県1部リーグに所属していた会社のサッカー部に入るも、やはりそこでもへたくそプレーヤーでした。人数が少なかったので試合には出られましたが、失敗ばかりで、試合中は怒られてばかりでした。
当時県1部リーグには、レノファ山口の前身である山口県教員団もいました。何度か試合もしましたが、自分にとってはまったくの雲の上の存在でした。
そんな感じのサッカー経験で、26歳で結婚して子供ができるとフェードアウトするように辞めてしまいました。
その頃、レノファ山口はJリーグを目指すと表明。当時は中国リーグでしたが、自分と試合をしたこともあるチームがJリーグにいくかも。徳地でやっていた練習をたまにこっそり見にいったりもしていました。
その後もJFL昇格を駆けた全国地域リーグ決勝大会への厳しい挑戦、天皇杯での川崎フロンターレでの柏原選手ゴール、JFL、J3優勝をかけたガイナーレ鳥取戦での平林選手の伝説のゴール、J2昇格とステージが上がりましたが、平日休みがあれば練習場に行って遠くから眺めるなど、あこがれの雲の上の存在として、遠くから応援していました。
そのうち、それなりに仕事も家庭も忙しくなり、レノファ山口とは近年、遠のいた生活を送っていました。
….そして2021年再びサッカー、レノファ山口に関わるチャンスが訪れます。
続く
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