鉄骨
今現在、私の住んでいるマンションは大規模な改装工事中であり、どの棟にも鉄骨の足場が張り巡らされている。そのせいで部屋に日差しが入ってこず、昼間でも薄暗い。窓から差し込む光を眺めているのが好きな私としては大問題である。ここ数日は部屋の薄暗さのせいで気が滅入っている。
いや、心が衰弱しているのは部屋の暗さだけが原因ではない。元をたどれば数日前に会社の上司と揉め、その時吸っていたタバコを彼の顔面に押し付けてクビになったことが始まりだ。タバコを押し付けたこと自体は全く後悔していない。彼はこの時代にそぐわぬ暴君であり、セクハラ・パワハラをはじめとする全てのハラスメントを網羅していた。彼は社内で最も嫌われていた人間であり、入社して間もない私でさえ奴には嫌悪感を抱いていた。
私が喫煙所でタバコを吸っているとそいつが入ってきて「子どもがこんなもの吸ったらあかんのちゃう~?」と妙に上擦った声で話しかけてきた。すると奴は私のキャメルの箱から一本取り出し、おもむろに火をつけ、私の顔面に向かって思いっきり煙を吹きかけてきた。
気が付いたときには、その上司が額を押さえてのたうち回っていた。その額にははっきりとした焼け跡が刻まれており、そのときはじめて自分の行いを自覚した。喫煙所にいた他の社員も、あまりに突然の出来事に困惑していたようだが、暴君の情けない姿を前に、薄らと恍惚の表情をうかべているようにも思えた。
あの日の私の行いは、突発的な感情でやったこととはいえ、間違いなく正義だった。しかし、他人に対して危害を及ぼす人間を会社は抱えていられない。GW目前にして私のニート生活が始まった。
会社にいかなくていいとなれば、存分に自由を楽しむべきだ。しかし、人間は莫大な余暇を手にすると戸惑ってしまう生き物だ。初めのうちはたっぷりと睡眠をとってみたり、何も気にせず飲みに出かけたりしたが、そんなものはすぐに飽きてしまう。結局は部屋の中でだらだら過ごし、時間が経過するのを待つだけだ。5月3日の憲法記念日から始まったニート生活も、5月5日のこどもの日になるころにはなんの新鮮味も感じなくなっていた。加えて部屋がどんよりと暗いため、それに感化されるように私の心も荒んでいった。
夜というのはやはり余計なことを考えてしまう。当時は正義だと思っていた行動も、今ではクビという事実を正当化するためにでっちあげた言い訳としか思えない。新卒で入社したにもかかわらず1カ月近くでニートに転落した自分の愚かさを恥じる。みんなが働いている時間にベッドで寝転んでいることに罪悪感を抱く。この先の人生が見えない。そういったことをぐるぐる考えているうちに、自分の存在価値が見いだせなくなってくる。眠れない。壁掛け時計は3時を指している。このまま夜が続くのはつらいが、朝が来るのはもっとつらい。あれだけ憧れた日の光も、今や自身の不甲斐なさが照らされるようで恨めしい。
どうしても眠れないのでたまっている小説でも読むことにした。活字を追っていれば時間は早く過ぎるし、自意識から目を背けることが出来る。物語の世界に浸っていれば、その瞬間は現実のことを考えなくて済む。そういったことを目論んで、私はハードカバーの表紙をめくった。
本を読むのは久しぶりだ。読書は好きなのだが、どうしても後回しにしがちだった。結局はスマホを眺めて、手軽に摂取できる快楽に溺れるばかりだ。しかし莫大な時間を手にした今、やるべきなのはこういった時間のかかる趣味なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに1冊読み終わった。時計は5時10分を指している。時季を考えると、もう外が白んできてもおかしくないはずだが、鉄骨に覆われたこの部屋は相変わらずの暗さを呈していた。今日は曇っているのかもしれない。久しぶりの読破体験に軽く高揚していた私は2冊目を読むことにした。
2冊目の本も半分に差し掛かるところで、異変を感じた。もう時計の針は6時40分を指そうとしているが、全く夜が明ける気配がない。毎日この時間帯に通勤していた私は、この時間帯が明るいということを知っている。いくら鉄骨が張り巡らされているとはいえ、いつまでもこんなに暗いはずはない。
ほとんど無意識のうちに外に出ていた。やはり外は真っ暗で、たまに通る車の音以外は何も聞こえない。マンションの前にある大きなパチンコ屋の電気は消えており、その後ろで大きな満月が不気味に光っている。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、裸足だったことに気が付いて部屋に戻った。一体どういうことだ。鉄骨に覆われたこの部屋に閉じこもっている間に、私だけが夜に取り残されてしまったのか。その後1時間経っても、2時間経っても朝が来ることはなく、とうとう時計の針は11時を指していた。
困惑していた私だったが、徐々に願ってもない状況であることに気付き始めた。このまま世界がずっと夜ならば、朝を恐れることはない。明日が来るまで自分を攻め続けることもなくなる。街が眠り続けているのならば、私という存在が浮き彫りになることもない。私を照らしていた太陽を拝まなくてよいのなら、もう苦しまなくていい。
そうだ。そうだったんだ。私を苦しめていたのは社会や自分自身ではなく、太陽そのものだったのだ。眠れないベッドの中、朝が来ないことを願った。まさか本当にそれが叶うとは思いもよらなかったが、一切の光が存在しない部屋がこの現状を肯定している。私は歓喜した。そして、永久に続く夜の中で、私は私を知らずに生きていくことを誓った。
数日後、マンションを覆っていた鉄骨はあっさりと解体され、私の部屋には元通り日が差し込むようになった。窓から差し込むその光は、ベッドの上にある乱れた寝具を柔らかに照らしていた。
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