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空想科学少年ラプソディ

少年期のお話をしますので、かなりの昔話になります。

'70後半〜'80年代前半にかけて、ワタシは国内外のSF小説を愛読(というか乱読)する「空想科学少年」でした。
少年期自体は'80年代末まで続くのですが、とある理由から80年代の前半(いわゆる厨二?の頃)から10年近く読書から遠ざかったこともあって、ワタシがSF小説やSF漫画に触れたのは、実質的に3〜4年ほどの短い期間だったと記憶しています。でも当時のワタシの真っさらな感性にとっては、充分以上の「吸収の時間」だったと思います。
結論からいえば、ワタシはのちにSF作家にはなりませんでした(いくつかのSF映像作品やSF音声作品はつくりましたが)。それでも、あの時間は自分の生涯にとってとても大切なものだったと言い切れます。

ワタシがいまも、SF小説を愛しているからです。

ワタシの少年期、すでにテレビ番組では子ども向けのSF作品が大人気を誇っていた時代でした。
ワタシが物心ついたときにはもうウルトラマンも仮面ライダーもいましたし、初めて感動したSF作品は、ジャイアントロボの最終回でした。
『ジャイアントロボ』、ご存知ですか。
巨大な戦闘ロボが、子どもの命令でこき使われる物語です。
ですが最終話、ロボはたった一度だけ子ども(主人公)の命令を無視します。それがなぜか、そしてどうなるのかはここでは語りません。すくなくとも幼少のワタシは泣けました。みなさんはどうでしょう。

SFをモチーフにしたテレビの特撮ヒーロー物やアニメ(当時は「テレビ漫画」と呼ばれていました)はその後も巷に溢れてゆき、いつしかワタシは、もうそこに「様式美」的なものしか見出せなくなっていました。「ウルトラマンならこう対処するんだろうな」「仮面ライダーならこう戦うだろう」ということをあらかじめ見透かしたうえでその物語を享受するのは、オトナが歌舞伎や吉本新喜劇を娯しむような姿勢です。なんと可愛くない子どもだったことか。
確固たるテーマやメッセージ性が内包されていない作品に、ワタシは興味を持つことができなかったのです。
(※ご承知のとおり、ウルトラマンや仮面ライダーは重厚な社会的なテーマやメッセージに裏打ちされた素晴らしい物語です。でもその深意を知ったのは、ワタシがすこしオトナになってからでした。)

そんなワタシがひそかに近づこうとしていた世界観。
それがもっと本格的な、字義通りの「サイエンス・フィクション」でした。

いまなら映画やアニメ作品のなかから容易にSFの名作を見つけることができます。その種類や趣向も多彩で、たくさんの物語のなかから自分の好きなカテゴリーを選び出すこともできますよね。タイムトラベルもの、異世界ファンタジー、架空戦記などは時代やメディアを超越するほどの大定番。

でも1980年前後の時期は、まだメディア自体がSF作品を捉えあぐねていた時代だったのです。多くのオトナたちにとって、それはたんに「科学を背景にした絵空事」でしかありませんでした。SF作品を今後の社会を読み解くために有用な「ケーススタディ」と捉える人たちもいましたが、当時はすくなくとも少数派でしかなかったと思います。
そういう「分からず屋のオトナ社会」への反動もあってか、ワタシたちの世代はSF作品に餓えていました。

ときあたかも『機動戦士ガンダム』が放映され、その大反響が社会現象化したのはこの頃です。
これは「地球人同士による戦争の最終形態」を描いた作品でした。
ガンダムは人類の宇宙移住時代(宇宙世紀)初期を舞台とした、地球連邦軍とジオン公国軍の戦いを描くロボットアニメですが、同時に、当時の優等生である地球生活者と「ニュータイプ」を含むスペースコロニー生活者(スペースノイド)たちの認識的な隔絶を予見した作品でもありました。
「地球人同士による最後の戦争」とワタシが書くのは、これより先は「地球人vs宇宙人」という対立構造に変質してゆくことが考えられるからです。
そういう意味合いにおいて、この作品はまさに想像上の未来世界の景色を根底から変える不朽の名作でした。
かくいうワタシも、ガンダムによって世界の未来像を新たにされた少年の一人です。それは鮮烈なイメージでした。

でも当時のワタシにとって、SFはもうすこし裾野の広い世界観でした。
ガンダム、そしてその後に続くSFアニメの金字塔『伝説巨神イデオン』(こちらは同一の始原を持つ宇宙人同士による最終戦争を描いています)を作品発表時に体感しつつ、ワタシは別のジャンルのSF作品に傾倒していました。

それが、SF小説です。
ワタシはこの頃、日本の作家が書いたSF小説をたくさん読みました。
当時のワタシにとってアイドル的な存在だった作家は以下の3名。

まずは小松左京。
長篇『復活の日』は現況のコロナ禍のもとで読み返されることも多いと聞きますが、その他にも近未来を予見した作品はたくさんあります。
そして同時に、この博覧強記の作家は、過去の時代についても多くの可能性を示しています。それらは、いわゆる「if小説」(もし日本が太平洋戦争に勝っていたらetc.)の規定枠を踏み倒し、「過去が変わったとしても人間は結局変わらない」というメッセージをワタシに与えてくれる作品群でした。
『地には平和を』という短篇があります。
日本が敗戦を認めたあの夏の日の歴史が改変され、日本軍がさらなる戦い(本土決戦)を挑んだという些か陳腐な設定のもとに、やがて強烈なメッセージを込めた空前絶後のラストへが待ち構える畢竟の物語です。
歴史を捻じ曲げたのも、それを修正したのも、じつは我々より「数千年後の未来人」だと知ったとき、アナタならどう感じますか。

次に星新一。
近年ますます再認識されている「ショート・ショートSF」の先駆者ですね。
文庫化された氏の作品には、とても可愛らしい挿絵が描かれていて、飄々として読みやすい文脈とともにほのぼのとした雰囲気が醸し出されています。ですが、作品の内容を深く考えれば考えるほど、そこにはかなり残酷でペシミスティック(厭世的・悲観的)なメッセージが込められていることに気づかされます。
『鍵』という短篇があります(氏の作品はたいてい短篇や掌篇ですが)。
一本の鍵を拾った主人公が、その鍵で開くはずのドアを探し続ける旅の物語です。とても長い旅の末、いつしか主人公は老い衰えてしまいました。そこへその鍵を「拾った者の幸運を約束するため、わざと落とした」という女神が現れます。さて、主人公は女神に対して何を望んだのでしょうか。
ワタシの知る限り、これが星新一のSF作品群のなかでは数すくないオプティミスティック(楽観的)な物語のひとつです。

そして広瀬正。
70年代初めに夭折した伝説的な「時間SF」作家です。
氏の作品に未来世界はあまり描かれず、いつも「過去の世界」が描かれていたと感じます。
『マイナス・ゼロ』という長篇があります。
そこで描かれる時間旅行の論理性について、ワタシは一度も深く考えたことはありません。氏が詳細に描く戦前の日本のまぶしさに目がくらみ(とてもステキな時代として描かれています)、もはやタイムマシンとかそういうものは物語の仕掛けでしかないと思わせられたときに、突然その巨大な真意に行き当たるのです。
過去を取り戻せるならば、人は何を取り戻すのだろう。
本作は、半世紀を超えてなおワタシのココロにまっすぐ問いかけています。


ワタシが大切に思うSF小説作家について、すこしだけご紹介させていただきました。ハインラインやスタージョンなど海外の作家も含めれば、きっと書籍一冊分ほどの分量になってしまいますので...。

アポロ宇宙船が月へ着陸した(とされる?)年に生まれた少年にとって、この世界は本当に不思議だらけの場所でした。そして、そんな頃にいつもワタシのそばにいてくれたのが、上述したようなたくさんのSF小説でした。

「科学」ってつまり何なのか。そんなことは最初からワタシにはわからないし、これからもきっとそうだと思います。
でも「空想」については、すこしだけ理解しているといまは思えます。

「空想」とは「願い」です。
それは人間を想い狂わせるものである一方で、見果てぬ夢へいつか辿り着かせる大きなチカラだとワタシは考えています。
その願いが、人類が固有の生活技術として編み出した「科学」と結び合う時代にたまたまワタシは生まれてきました。

いまでもワタシは、途方もないことを想い願う「空想科学少年」です。
地球が本当に丸いのか確かめたことすらないくせに、この世界が本当はどういうものなのかを知りたくて、まったく落ち着かない人生です。

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