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読めない時代に何を読んだ?2016年に立ち返って

大学時代に書いた国語科教育についてのレポートが出てきて、結構面白かったので加筆・修正をして今の自分の考えに近づくように、読みやすいように再編してみました。読み返すとサピア=ウォーフ仮説に傾倒していたりして、懐かしく感じました。とりわけ、精神的にキツかったときなので共感覚(音に食感や色がついたりしてました)が過敏に作用して生きづらさもあったので、自分の現象に納得するために研究していたのかもしれません。

今は時折耳鳴りに悩まされるもののすっかり健康体になって、あまり共感覚にも気に留めなくなりました。すったもんだあった大学時代ですが、文章量や読書量などは目を見張っていたなと感心します。今では思考が到達できないとこまで考えてたんだなと思うとちょっと羨ましくも思います。

当時、空気を読むことと、自分の意見を言うことのバランスの難しさに悩んでいました。そんな中で書いたものです。

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場の空気を読む、流れを読む、など普段私たちは「読む」という言葉を本来の一次的な意味から空間的な意味へと範囲を広げている。では一体そこで読まれている対象は何なのであろうか。目に見えないものを読めるようになるにはどうすれば良いのだろうか。 

日常生活においてひとは「話すこと・聞くこと」を通じて言葉を獲得していく。
言葉はふたつの顔を持つ。ひとつめは私的な面として、言語使用者がこれまでに溜め込んできた知識の体系である。ふたつめは公の役割を担う時、言葉を共通にする共同体がコミュニケーションを成立させるために合意した慣習の体系である。


このふたつの密接な対応が、最も効果的なコミュニケーションの手段として言語を言葉たらしめているのである。つまり、話し言葉を私的な面と考えると、初期学習者における公の役割をもたらすのは書き言葉ではないだろうか。
その書き言葉が読めるということは、公的な場への第一歩、つまりは子供が家庭の次に属する社会集団の参加のきっかけとなるのだ。  

思考とことばは一枚の紙に例えることができる。思考は表であり、ことばは裏である。表を切断すれば必ず裏も切断される。言語においても同様で、一方を他方から切り離すことはできない。

ことばが読める、というのは書き手・話し手の思考がわかるということなのだ。

ことばを書く/話す前提として単語や文法規則など、ある一定の知識の蓄積が必要である。日常にも同じことが言えよう。空気や流れを読むためには知識の蓄積や経験が欠かせない。思考を読むにはその裏にあることばを読めなければならないのだ。

「読むこと」を獲得する際には読解と読書という観点に分けられる。

読解は求心的な読み深めを目的とし、読書は遠心的な読み広げを目的とする。
前者の利点として、解釈の過程が画一化されているので授業などで実施しやすい。(国語の授業などでよく問われる、作者の心境を答えなさいみたいなものだ。)
後者は趣味嗜好にとらわれず総括的に読書を推し進め、生涯にわたる読書習慣の姿勢をつくるという通時的な視点の獲得が目標だ。
このふたつの観点は相反するものではないと考える。鶏か、卵か、どちらが先ということではなく、ふたつを循環するようなスパイラル的な視点の獲得が望まれている。

つまるところ、「読み」の学習の終着点はメタ認知の獲得なのではないかと考える。冒頭で述べたように、現代において対象は別であるが「読む」ことは重要視されている。
であるからこそ、本質である「読み」を生涯学習の観点として捉えながら、日常的にメタ的な視点を意識し、読解できるようになることが望まれるのではないだろうか。

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<要約と当時の私へはしがき>
インプットとアウトプットの量によってメタ認知能力は決まるので、情報を取り入れたら、正しく取捨選択して出力できるようになるといいね。読書量=語彙力=読解力。読書だけじゃなく、読解の時間も大事だよ。

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この時読んでた本はこんな感じです。
共感覚や、言語の獲得過程、色の見え方/捉え方の違いについてはかなり理解できるんじゃないでしょうか?興味あるひとは是非。

<B・L・ウォーフ「言語・思考・現実」>

<今井むつみ「ことばと思考」>

<ガイ・ドイッチャー「言語が違えば、世界も違って見えるわけ 」>

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