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今すぐに行きたいところ

若い頃は、ワイワイと大勢でお酒を飲むのが好きだったのに、歳をとると誰にも邪魔されずにサクッと短時間で飲みたいと思うようになってきた。
会社の近くで、ちょっとだけ美味しいものをつまみたい時にフラッと立ち寄れるお店はないかなと思っていた矢先、「このお店、美味しかったから是非行ってみて」と味にうるさい先輩から1枚のカードをもらった。

駅前の大通り。片側3車線の道路の真ん中には路面電車が走り、ショッピングモールや百貨店
オフィスビルやマンションが並ぶ。
若者たちが好きそうなお店も華やかさを添えている、賑やかなメインストリートだ。

その大通りから1本裏道に入ると、ガラッと景色と音が変わる。
道幅は6分の1くらいに狭く、車の音も遥か遠くなり、往来する人もぐっと少なくなる。

江戸の頃は商人が住む町人町だったらしい。3階建ての小さいビルや1階はお店で2階は住居と伺えるこじんまりした建物がぎっしりと並んでいる。
遠目で見るとその色合いはちょっと煤けたライトグレーやベージュ。

近くには戦後から続く古い市場もあり、一瞬、昭和50年代あたりなのかと錯覚すら覚えてしまう。
そんな少し古い風情を残す通りには、小さいながらも「なんだか惹かれる」お店が点在している。

先輩から渡されたカードに書かれたお店はイタリアンバール。
決して新しくはない小さなビルの2階にある。壁のようにそりたった、スキー場なら最上級者コースだろうというくらい急傾斜の階段を恐る恐るゆっくりと登り(上がるではなく)、扉を開ける。
淡いオレンジ色の暖かい照明に包まれた、L字型のカウンター。10席ほどの可愛らしい、こじんまりしたお店だ。

料理はアラカルト。パスタ、肉、魚、ピザどれも美味しい。特にトロトロにクリーミーな中でピリッとした刺激の「ブルーチーズのニョッキ」と丁寧な下こしらえが伺える、牛の内臓をトマトソースで柔らかく煮込んだ「トリッパ」は、死ぬまで毎日これを食べていたいと思えた味だ。

席はいつも満席なのだが、一人で行っても気後れしない程よい距離感。
カウンターの中ではツッコミ担当のマスターとボケ担当の奥さんの会話。
それを見ているだけでも癒される暖かいお店だ。

2019年12月のある日、「休業のお知らせ」のメール。いつもはマスターから送られてくる
折々のメールだが、この日は奥さんからのメールだった。
仕込み中のマスターが脳卒中で倒れ、入院されたとのことだった。
奥さんのメールの最後に「頑張って絶対大好きなお店に帰ってきます!しばらくお休みさせてください」と記されていた。

時をほぼ同じくして、世の中はコロナに見舞われ、外出や外食に躊躇いが占め、出社すら禁止される事態になった。
やがて歩くことすら忘れてしまうほど在宅慣れした私は、毎日食べたいとまで思った美味しいお酒や料理の味をすっかり忘れてしまっていた。

今年3月のある日、お店からメールが届いた。
「1年2ヶ月の間、休業してました。そろそろ、お仕事をしなければ!!以前のようには動けませんが頑張って営業再開です!!」
営業再開してから始めたというインスタグラムにはピザを力強く仕込んでいるマスターとお店の写真。
そして私の脳裏に蘇る、ニョッキとトリッパの味。

マスターの姿は、コロナに見舞われて元気がなくなった商人の町に、恐れず立ち上がる勇気を与えているに違いない。

全国的な緊急事態の全面解除が近くなった今、まだ大手をふって外食は気が引ける気がするけれど、閉塞感に苛まれ続けた自分に立ち上がる力を与えてくれるのはこの店しかないと思っている。
さあ予約だ!今度は一人ではなく、気心知れた仲間と一緒に。



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