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小説を読み、社会を読む〜『この30年の小説、ぜんぶ』

◆高橋源一郎、斎藤美奈子著『この30年の小説、ぜんぶ 読んでしゃべって社会が見えた』
出版社:河出書房新社
発売時期:2021年12月

高橋源一郎と斎藤美奈子が2011年から2020年まで、日本文学について語り合った記録。標題に「30年」とあるのは、90年代の作品をも含めて論じる対談も含まれているから。

結果として、小説を語ることは社会について語り合うことにもなる──という当たり前といえば当たり前の事実が確認されます。「ほんとうに社会のことが知りたいなら、小説を読むべきなのである」と高橋は言い切ります。
「なぜなら、小説家たちは、誰よりも深く、社会の底まで潜り、そこで起こっていることを自分たちの目で調べ、確認し、そして、そのことを、わたしたちに知らせるために、また浮上してくる」のだから。

一時期、文学の「終わり」が当の文学者の間で盛んに論じられたことがありましたが、時代は次の段階へと踏み出したのでしょうか。本書にみえる二人の文学への信頼は(皮肉でなく)すがすがしいものだと感じます。

もっともここで取り上げられる文学の幅は広い。宇能鴻一郎の30年ぶりの純文学とか、会田誠の青春変態小説とか、小説ではないけれど開沼博の『「フクシマ」論』も俎上に載せられています。

東日本大震災前後の作品には当然ながら「社会」と切実に切り結んだものが多い。あるいは、そのような社会の出来事に即した作品読解が行われます。緊急時に即応するのも「文学の機能」だと高橋は指摘しています。その文脈で川上弘美の『神様2011』が俎上に載せられているのですが、「文学には、夢を見させる作用と、覚醒させる作用がある」との高橋の箴言が印象的。いうまでもなく川上作品は後者の作用に着目されることになります。

田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』、笙野頼子『未闘病記 膠原病、「混合性結合組織病」の』、中原昌也『知的生き方教室』の三作について「私小説が社会批判の武器になるようになったのかもしれない」と締めくくる論評も興味深い。

千葉雅也の『オーバーヒート』については両者ともに批判や注文も多くなります。「ストイックに突き詰めていく息苦しさ」(斎藤)、「旧来のボーイズクラブ的」(高橋)という評言には賛否両論ありそうですが、斎藤が、杉田水脈のLGBT問題に関する千葉のコメントを引用して「それまでさんざん差別してきて、急に手のひらを返したように理解あるふりをするんじゃねーよ」との視点を導入するのは、いかにも「らしい」読み方でしょう。そもそも、この種の、優等生的発言に収まらないところに文学(&批評)の真価があるわけですが。

戦争や歴史について考えてきた作家として奥泉光が登場します。戦争を描くという論題では文学の「即応」性がいったん括弧に括られます。「同時代の出来事が客観的な歴史として語られるようになるには、60年を要するという説」を引用して、最近になって書かれた戦争文学を読むのです。大きな天災も人災も大地を揺るがせますが、それを素材にした小説や批評もまた揺れざるをえないということでしょうか。

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