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モラル・サイエンスとしての〜『経済学のすすめ──人文知と批判精神の復権』

◆佐和隆光著『経済学のすすめ──人文知と批判精神の復権』
出版社:岩波書店
発売時期:2016年10月

日本で「制度化」された経済学は「数学の僕」と成り果てながら人文知の欠如と批判精神の麻痺を招いた。今こそ文学・歴史学・思想史を学び、経済学を水面下で支える思想信条に基づく批判精神を培わねばならない……。本書がすすめる「経済学」復興の内容を要約すればそのようになります。

そもそも科学が「制度化」されるとはどういうことなのでしょうか。佐和は「科学の制度化」のための必要十分条件は以下の四つであるといいます。

(1)標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。

(2)査読付き専門誌が存在していて、業績評価は専門誌への掲載論文の質量により定まること。

(3)当該科学を専門的に担う職業集団が存在すること。

(4)当該科学の有用性が社会的に認知されていること。

米国では以上四つの条件が満たされていて、その意味では経済学の「制度化」が確立されています。しかし日本では事情が異なります。フェアな査読性が機能している経済学の専門誌は数少ないし、エコノミストの職業集団は存在しません。さらに「有用性」をめぐって日米で大きな違いがあるというのです。

アメリカでは、経済現象を論理的かつ数量的に「科学」する経済学の「有用性」が社会的に認知されている。他方、日本では、経済現象を「科学」する有用性よりも、府省の政策を正当化するという意味での「有用性」の方に重きが置かれている点、日本における経済学の制度化は、きわめて特異だと言わざるを得ない。(p144)

むろん佐和は米国流に制度化された経済学を無批判に信奉しているわけではありません。それどころか米国の経済学もまた「人文知と批判精神を失い、数学の僕と化したジャーナル・アカデミズムに現を抜か」しているとみなして批判しています。反面教師とすべき米国の経済学と日本のそれを比較衡量するのに紙幅を割いているのは、いささか混乱を招きやすい論じ方だとは思いますが、日本の現状もやはり佐和の構想する経済学のあり方からはほど遠い。そこで佐和が注目するのはヨーロッパの経済学です。

ヨーロッパの経済学者の多くは、次のように考えている。「経済学は論理学の一分野であり、一つの思考法である。経済学はモラル・サイエンスであり自然科学ではない」と。モラル・サイエンスとは、イギリス経験論の伝統にしたがえば、自然科学と対をなす、人間的行為を対象とする学問である。モラル・サイエンスとしての経済学は、社会のあるべき姿を想定し、現実社会を、あるべき社会にできるだけ近づけるための手段を研究する学問である。経済学がモラル・サイエンスであるからには、異分野の人文社会科学をよく学び、「社会のあるべき姿」の何たるかについて人社系の知を総動員するだけの心構えが、経済学者には求められるのではないだろうか。(p185〜186)

佐和はモラル・サイエンティストのモデルとしてジョン・メイナード・ケインズとアンソニー・アトキンソンを挙げつつ、トマ・ピケティの来歴や仕事についても肯定的に言及しています。ピケティのベストセラー『21世紀の資本』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』なども引用されていて、ヨーロッパのリベラル・アーツの伝統を受け継ぐ姿勢が明瞭に打ち出されているのです。

本書の現状認識もそれに基づいた問題提起も明快です。ただし世界の経済学に関する佐和の見立てが本当に妥当するのかどうかは私には判断できませんし、さらに人文社会科学の必要性を力説するくだりは、すでに誰かがどこかでやっていたような議論でさして新味はありません。全体をとおして理念を繰り返しているだけという印象が拭い難く、そのことの意義を否定はしないけれど、やはりお題目よりも具体的な成果を示すことが研究者に一番求められていることではないかとあらためて思います。人文社会科学に対する蔑視は今に始まったことではないのですから。

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