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社会学から文学へ、透明な膜の向こうに広がる世界〜『ビニール傘』

◆岸政彦著『ビニール傘』
出版社:新潮社
発売時期:2017年1月

まるでゴダールの映画のように、自分と関わりをもった人々にまつわる短い挿話を脈絡もなく連ねた『断片的なものの社会学』は不思議な魅力を放つ本でした。今どきの社会学者はこんな本も書いちゃうんだと肯定的な驚きをもって読み終えた人は多かったでしょう。そこからは安易に分析や解釈を許さない現実社会の豊かさや複雑さのようなものが鈍く光って垣間見えるようでした。

本書は、その社会学者・岸政彦による初の小説集。芥川賞の候補にもなった表題作に加えてもう一篇〈背中の月〉を収録しています。薄いつくりで、鈴木育郎の撮った大阪の風景写真をたくさん使って何とか一冊の書物にしたという印象なきにしもあらずですが、それがふだん小説を読まない人にも手にとってもらいやすい雰囲気をつくりだしているといえるかもしれません。

〈ビニール傘〉は大阪の片隅に住む若者たちの群像を複数の視点から描き出します。タクシー・ドライバーの男、ビルの清掃作業員、コンビニ店員、部品工場で働く派遣社員、解体屋の飯場で働く男……。視点が不意に切り換わっていくスタイルはやはり断片的といえましょうか。けれども読みすすむうちに彼らと交流のある女性は相互に関係しあい、あるいは人物そのものが重なっているかもしれないという図柄が浮かびあがってきます。あえて明瞭に描かないぼかした書き方をしているのは最初から作者の意図したことでしょう。

沈滞する大阪の街全体を慈しむような岸の筆致には共感できるし、大阪弁の会話もたのしい。困難な時代を生きようとする若者たちのすがたにもある種のリアリティが感じられます。これが文学作品として傑作かと問われれば答えに困るかもしれないけれど、読者の想像力にゆだねる余地をいくつも残しているという点では当然のことながら『断片的なものの社会学』にもまして文学的な世界をつくりだしているといえます。

ビニール傘をとおしてみえる世界。ビニール傘とともにある若者たちの日常。自分の気に入ったデザインのものをあれやこれやと迷って選びだすのではなく、立ち寄ったコンビニで気軽に買ってしまうもの。それは自分たちと同じ使い捨ての儚い運命にあるものかもしれません。だからこそ、雨をはじいた一本のビニール傘が何故かしら愛らしいもののようにも思えてきます。実際に目にしたわけではないのに脳裏に染み込んでくるようなその透明な存在感……。

もうひとつの作品、〈背中の月〉は妻をなくした男の心象風景を描いていて表題作に比べるとシンプルな構成。全体的にやや感傷的な空気感が支配していて私はあまり好きになれませんでしたが、夫婦の何気ない会話などに作者一流のさりげないヒューモアやペーソスが宿っていて捨てがたい味わいがあることも否定しません。

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