小説禁止令に賛同する

ディストピアの中から浮かび上がる文学の魔力〜『小説禁止令に賛同する』

◆いとうせいこう著『小説禁止令に賛同する』
出版社:集英社
発売時期:2018年2月

時は2036年。日本は東端列島と呼ばれ、亜細亜連合の一部になっています。語り手の〈わたし〉は元小説家で思想犯として獄に繋がれている身。一昔前のように言論の自由が失われた社会になったのです。戦争の後、亜細亜連合の支配下に入った後も収監されたまま。

〈わたし〉は亜細亜連合が出した小説禁止令にいちはやく賛同の意思を表明し、紙と万年筆を与えられ、文章を書くことを許されます。それは「やすらか」なる小冊子に掲載されることに。私たち読者が読むことになるのもその文章──という設定です。

小説禁止令に賛同する──語り手は敗戦国の一員として、小説がいかに社会に害毒を与えるものであるかを力説して禁止令に迎合しようとします。

当然ながら本作は小説ではなく随筆として執筆されます。そうして〈わたし〉は随筆の可能性をうたいあげるのです。

 そもそも随筆の可能性はきわめて大きいのです。わたしたちが哲学書だと思っていても実は随筆だったということもある。例えば、わたしが学生時代から尊敬し続けていた、この東端列島を代表する批評家・柄谷行人は自らの作品の多くを随筆だと言っています。ひょっとしたら全部かもしれない。(p18)

それに対して小説というものは「あまりに不誠実な文の塊」であり「まったくもって薄気味の悪い宇宙」ではないか。それは人生とはまるで異なった常識が通用する世界。確定の過去形を駆使して、読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう。しかも作者というものを隠しながら。

 ……こんな不気味な催眠的な暗示のような、いや主観の問題など超えてしまう錬金術のような、それでいて実に卑小で簡単な技からできている発明を、なぜ嫌悪し、恐れないのでしょうか。(p122)

けれども小説の不誠実さを語っていくうちに、いつのまにかそれは秀逸な小説賛歌へと反転しています。というか、小説を糾弾する言葉はそのまま裏返せば、小説の魔力であり魅力であると読めます。そうして〈わたし〉は数多の小説を引用するのと平行して創作を始めます。架空の小説『月宮殿暴走』を。

それにしても『月宮殿暴走』のなかで小説そのもののイメージを語りだすくだりはいかにも幻想的。かつて小説がこれほどまでに美しく語られたことがあったでしょうか。

〈わたし〉の反語的な表現は管理当局にも的確に読解され、文章を書くたびに懲罰を受けているらしいことが、章末ごとの注釈によって示されます。「軽度処置」「中度処罰」「薬物直接投与」……などなど。『月宮殿暴走』という風刺のきいた創作によって最後に〈わたし〉に下される処罰は?……どうか本書を手にとってご自身でお確かめいただきたい。

いとうがこのような近未来のディストピア小説を書くについては、当然ながら今日の政治社会のありさまを強く意識していることは間違いないでしょう。言論の自由は、油断していると簡単に脅かされる。書きたいことを書けず、書きたくないことを書かされる時代は、いうまでもなく不幸です。今日の状況をみるに私たちがそのような時代に突入しようとしていることは否定できません。そのような社会状況への警鐘という観点を重視する論評もあるようですが、上に記してきたように、私としてはむしろそこから立ち上がってきた小説論・文学論にこそ注目すべきだと考えます。

小説はいくら抑圧しても死に絶えることはありません。なぜなら、それは必ずどこかで書かれ、どこかで読まれていくものだから。何よりもそのような小説の魔力を信じている点にこそ本書の真価があるのではないでしょうか。

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