1968漫画_Fotor

文学と映画を凌駕するジャンルとしての〜『1968[3]漫画』

◆四方田犬彦、中条省平編著『1968[3]漫画』
出版社:筑摩書房
発売時期:2018年5月

四方田犬彦が中心になって編集した『1968』シリーズを締めくくる第3弾は漫画がテーマ。1968年、漫画は言語と映像を駆使する最新のメディアとして、文学や映画を凌駕しようとしていました。多くの才能が次々と現われ、彼らは壮大な領野を自在に駆けめぐり、驚くべき実験を試みていたのです。本書はその一端を現代に甦らせるアンソロジーです。

その時期にそのような実験的創作が可能になったのは、それを強く後押しする媒体が登場したという事実も見逃せません。四方田犬彦は次のように書いています。

1960年代後半に漫画界で始まったのは、従来の漫画という概念を解体寸前にまで追いやってしまうような実験であり、これまで子供の読み物としてしか考えられてこなかったこのジャンルに、哲学的、また民俗学的、深層心理学的な主題が導入されるようになったことである。『ガロ』と『COM』がこうした新しい漫画を支持する急先鋒であった。(p14)

佐々木マキの《ヴェトナム討論》には驚かされました。渥美清や水前寺清子など、当時の著名人の画像がコラージュされ、さしたる文脈も形成することなく羅列されていくのです。吹き出しには偽の中国語の台詞が書きこまれ、何やらヴェトナム戦争を非難している風です。

興味深いのは佐々木マキの出現に際して、手塚治虫が過敏な反応を示したことです。手塚は佐々木が連載を開始した雑誌の発行元に電話し、ただちに連載を中止するよう警告したことはつとに知られています。そうした事実はいかに佐々木マキの作風が既存の作家たちに危機感を覚えさせたかを証し立てるものであるでしょう。

吉本隆明が称賛したという岡田史子の作品からは《墓地への道》が収録されています。四方田によれば郷里である北海道静内の風景に材を採った作品らしい。「手持ちカメラの長回しであるかのように」映像が進展していく展開はえも言われぬ不思議な魔力を醸し出しています。

つげ義春の《ゲンセンカン主人》の不気味さはどうでしょう。寂れた温泉町に一人の男がやってくる。彼は安宿ゲンセンカンの主人に似ていると言われ、その主人に対面しようと考える。けれどもそれは町の老女たちの共同体にとって、侵してはならない禁忌なのでした──。

赤塚不二夫の《天才バカボン》からは、バカ田大学のOBたるバカボンのパパたちが当時の女性闘士を徹底的に嘲弄している一篇が選ばれています。左翼活動家の常套句をパロディ化するフザケぶりは、当時は批判もあったでしょうが、いかにもギャグ漫画家にふさわしい態度といえるかもしれません。

水木しげるの《涙ののるま》は死神を主人公とした人情(?)喜劇です。私が真っ先に想起したのは落語との親和性です。落語には文字どおり《死神》という古典落語がありますし、落語作家の小佐田定雄が桂枝雀に提供した《貧乏神》という名作もあります。本作はそれらと共通するペーソスを感じさせます。あるいは小佐田の新作落語は水木のこの作品を参考にしたのかもしれません。

淀川さんぽは今日ではすっかり忘れ去られた漫画家です。大阪近郊を舞台にした作品で『ガロ』誌上において短い期間ではあるが活動したらしい。《たこになった少年》は小学校におけるいじめを描いた作品。いじめが深刻化している現代にはいっそうのアクチュアリティを有した作品といえそうです。ラストが素晴らしい。

藤子不二雄Aの《ひっとらぁ伯父さん》は四方田に言わせれば「戦後漫画史において画期的な作品」であるといいます。これまで明るい市民社会に生きる子供たちをユーモラスに描くジャンルであると考えられてきた漫画の世界にブラックユーモアを導入したという意味において。藤本弘とのコンビで知られる藤子不二雄(のち藤子・F・不二雄)名義の人気作品《ドラえもん》とは一味もふた味も異なるテイストです。

池上遼一の《三面鏡の戯れ》は、化粧品会社の女子寮に住む女性が大学生とデートをするという設定で、ラストはやや考えオチ的ではありますが秀逸。四方田によれば池上の初期作品は「ボードレールから横光利一まで、さまざまな文学作品が織りなす残響のなか」で創作されたものらしい。

楠勝平の《臨時ニュース》も一筋縄ではいかない作品。一見平穏な家庭のなかで、ペットとして飼われている犬が不気味な存在として登場しています。正直、一回読んだだけでは今ひとつピンときませんでした。同時代に台頭しつつあった「内向の世代」の文学に対応する漫画であるとの四方田の指摘になるほどと納得した次第。

随時引用してきたように、本書に収められた作品の読解にあたっては、四方田の解説がとても参考になりました。また鶴見俊輔や村上春樹、天沢退二郎の論考、中条省平のエピローグ的な解説もそれぞれに貴重。

ジャン=リュック・ゴダールの映画を観るような知的好奇心をもって、佐々木マキやつげ義春の漫画を読むという体験がそう遠くない時代に存在していたという事実。そのことはやはり記憶にとどめておくべきことではないでしょうか。

こうして振り返ると、1968年とは、政治のみならず文化の領域においても自由奔放でスリリングな時代だったといえます。とにもかくにも種々雑多な実験的創作が自在に生み出され発表されていました。
ヘイトスピーチのような暴力的な言説と、少しでも規範から外れた表現とみるやただちに批判を差し向けるような優等生的批評が二極化している現代からみれば、戦後日本史における一つの奇跡ともいえる時代だったのかもしれません。 

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