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アイロニーからユーモアへ〜『勉強の哲学』

◆千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』
出版社:文藝春秋
発売時期:2017年4月

勉強しない者たちが実社会でたくましく生きていく姿にエールをおくる言葉は巷にあふれています。学生時代はロクに勉強もせずに遊び呆けていたと露悪的に懐古するインテリも珍しくありません。それらはいずれもアンチ勉強言説の紋切型といえるでしょう。その裏返しとして、安易な自己啓発本は量産されてはいるものの、勉強することの気まずさやそこからじわじわと生まれる歓びに正面から原理的に言及した本はこれまでありそうでなかったような気がします。もちろん「気がする」だけで、単に私の勉強不足だけなのかもしれませんが。そこで気鋭の哲学者・千葉雅也の勉強論の登場です。

勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。これが本書の核となるメッセージです。自己破壊することなく状況に適応して生きていくのは「ノリのいい生き方」ですが、勉強すると一旦その環境でのノリは悪くなる。いわば「浮いた」状態になります。けれども次のフェイズで新たな環境のノリに入るのです。

その一連の引っ越しにおいて、千葉は言語を重視します。不慣れな言葉の違和感に注意すること。その違和感を通して特定の環境における用法から別の用法を考え直す可能性が開けるのです。言語をめぐる考察は本書のなかでも私にはとりわけ興味深く感じられました。

深い勉強、ラディカル・ラーニングとは、ある環境に癒着していたこれまでの自分を、玩具的な言語使用の意識化によって自己破壊し、可能性の空間へと身を開くことである。(p217)

ノリの悪い語りは、自由になるための思考スキルに対応します。千葉は、思考にはツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)があるといいます。前者は根拠を疑って真理を目指します。後者は根拠を疑うことはせず、見方を多様化します。勉強の基本はアイロニーですが、本書ではそれを徹底化することを避けてユーモアに折り返すことを推奨しています。アイロニーは過剰になると絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になりますが、それは実現不可能な欲望だから。

むろん「見方の多様化」についても理念的には極限的な状態は考えられるけれど、事実上私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方を仮固定することになります。それを可能にする条件は、個性としての「享楽的こだわり」です。もちろん「享楽的こだわり」もまた勉強の過程を通じて変化する契機をもつことになります。

この一連の過程でキーワードになるのが「有限化」。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されるていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成立させること。「勉強の有限化」とはそのような状態を指します。

環境のなかでノッている保守的な「バカ」の段階から、環境から浮くような小賢しい存在になることを経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的なこだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める『来たるべきバカ』へ。これが本書における勉強の原理論のあらましです。

本書の後半では、その具体的な実践方法を教示します。たとえば自己分析のための「欲望年表」の作成。「自分が何を欲望してきたか」をひろいだし、その背景となる出来事の年表を作ることをとおして「無意識と意識をつなぐ言葉を、仮に想定する」。これは一種の精神分析的方法ですが、それをシンプルに自分でやってしまうわけです。自分のこだわりの発端を分析してバラし、出来事と出会い直そうとすることで、享楽的こだわりもまた変化の契機を得るのです。

さらに、勉強を有限化しつつ継続するために、当然ながら専門分野のノリに入ることが必要になるでしょう。専門分野への参加に際しては入門書を複数比較してその分野の大枠を知ることなど、オーソドックスな助言がなされています。

ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、ジャック・ラカンなどのフランス現代思想をベースにしつつ、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や分析哲学など、本書では多くの哲学的知見をベースにしています。ことにドゥルーズ=ガタリの〈器官なき身体〉のパロディとして〈器官なき言語〉なる造語を導入しているくだりはおもしろい。

またピエール・バイヤールのユーモアにあふれた『読んでいない本について堂々と語る方法』が読書の完璧主義の不可能性を指摘するコンテクストで引用されているのにも納得しました。なるほど「仮固定」や「有限化」の一助としてバイヤールを持ち出すというのは一つの生産的な読み方なのでしょう。

そうした先人たちの思考スタイルに立脚しながらも、同時に自身の経験的なエピソードを随所に織り込んでいるので、この種の本にありがちなフラットな読み味からは免れているのも本書の美点のひとつといえます。

千葉が説く言語の玩具的な使用は、もちろん本書の記述においても活かされています。時に現代詩のフレーズを引用する。改行を多用してアフォリズム的なリズム感を醸成する。こうして読者は勉強の哲学的な言葉を享楽的に受け取ることができるでしょう。

バカの座に居直るのでもなく、環境のノリに合わせられる実利的な勉強のみを称揚するのでもなく。アクロバティックな勉強への道標。知性的なるものを冷笑する態度が幅をきかせる今だからこそ、読む価値のある一冊であるといっておきましょう。

【注記】投稿後、本文を小直ししている最中に誤って最初のnoteを削除してしまいました。他意はありません。最初に投稿した直後に「スキ」をつけてくださった末吉宏臣さん、竹村貴也さん、本当に申し訳ありません^^;

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