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書物には様々な出会い方がある〜『読んでいない本について堂々と語る方法』

◆ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)
出版社:筑摩書房
発売時期:2016年10月

まず書名を見て、ある種の疑念を感じる人がいるかもしれません。多忙なビジネスマンや学生に向けた安直なハウツー本のようなものではないか、と。あるいはそのような方法があるなら是非知りたいと期待する読者もいるでしょうか。でも実際のところ具体的な方法やスキルが書かれているわけではありません。基本的にはユーモアや諷刺精神が随所にまぶされた読書論・教養論の書といっていいでしょう。

まず驚かされるのは、脚注に記している参照文献についていちいち四つのカテゴリーを明示している点です。

〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本

「ちゃんと読んだ本」という単純なカテゴリーが存在しないことは要注目。この表示によれば、著者はムージルの『顔のない男』は〈流〉で、ジョイス『ユリシーズ』は〈未〉、フロイト『夢解釈』は〈忘〉だそうな。ついでにいえば本書が言及している小説のなかにでてくる架空の書物もリストアップされていて、バイヤールの茶目っ気のほどがうかがえます。

著者にとって「ちゃんと読む」「精読する」というような行為はハナからありえないことなのでしょうか。いや問い方を変えましょう。そもそも読むことと読まないことに明確な境界は存在するのでしょうか。著者の答えは「否」。

「読んでいない」という概念は、「読んだ」と「読んでいない」とをはっきり区別できるということを前提としているが、テクストとの出会いというものは、往々にして、両者のあいだに位置づけられるものなのである。(p8)

読むという行為はその中身を突き詰めれば様々でありうるし、読んでいない本に関しても人の噂や情報などをとおして何らかのイメージを得ることができます。ゆえに私たちの書物に対する経験は〈読んだ/読まない〉という二分法によって仕切られるのではなく、その両極のあいだにグラデーションをもって分布するということになるでしょう。

書物は読まれ方あるいは語られ方によって、様々な相貌を私たちの前にあらわすことになります。バイヤールの見立てでは書物には三種類あります。〈遮蔽幕としての書物〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉です。その三つはそれぞれ〈共有図書館〉〈内なる図書館〉〈ヴァーチャル図書館〉に対応します。この三類型は私にはいささか難解でしたが、一応、簡単に説明すると以下のようになります。

〈遮蔽幕としての書物〉とはフロイトから借用した概念で、われわれが日常的に話題にする書物のこと。「現実の」書物とはほとんど関連性をもちません。いわば「状況に応じて作りあげられる」代替物です。
〈内なる書物〉とは「神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体」をさします。「われわれが書物に変形を加え、それを〈遮蔽幕としての書物〉にするさいの影響源となるものである」。
〈幻影としての書物〉とは、われわれが話したり書いたりするときに立ち現れる、変わりやすく捉えがたい対象のことです。読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築するさまざまな〈遮蔽幕としての書物〉どうしの出会いの場に出現します。

書物がそのようにして多様なかたちをもって存在する以上、私たちは読んでいない本について語ることにネガティブな感情を抱くには及ばない。むしろ読んでしまうことで他人の言葉によって制約を受けることになるだろう。ゆえに読んでいない本についてのコメントが一種の創造的営みにもなりうるとさえバイヤールは主張するのです。

本書では、そのような書物とのさまざまな関わり方について、夏目漱石やオスカー・ワイルドなどを引用しながら精神分析的な手法を用いて考察していきます。ワイルドによれば、批評とは自分自身について語ることであり、「作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける」。

当然ながら本書の議論の進め方は多分に詭弁的、といって悪ければパラドキシカルであり、生真面目に反論しようとすればいくらでも可能でしょう。しかし一方で、ひとつの教養論ないしは教養共同体を相対化する試みとしては興味深い視座を提起しているのではないかとも思います。

今、話題の千葉雅也『勉強の哲学』でも「読書の完璧主義」の不可能性を指摘する文脈で本書に言及していて、たいへん興味深く感じました。そのなかで千葉はバイヤールから導きうる認識として「読書において本質的なのは、本の位置づけを把握することです」と本書の要点をざっくりと言い切っています。つまりバイヤール=千葉的に極論すれば、勉強を深めるには、一冊の書物に拘泥するよりもたくさんの書物を「知る」必要があるということです。

ところで私はこのレビューを書くにあたって本書をどの程度まで読んだといえるでしょうか。著者のカテゴリーにしたがえば、どうやら〈流〉〈聞〉に該当していそうであることを告白しておきます。
なお私が読んだのは同じ版元から2008年に刊行された単行本ですが、2016年にちくま学芸文庫のラインナップに加わり、より入手しやすくなりましたので、ここに紹介する次第です。

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