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浪花はシネマの都だった!?〜『大阪「映画」事始め』

◆武部好伸著『大阪「映画」事始め』
出版社:彩流社
発売時期:2016年10月

日本で映画の都といえば、京都や東京を想起する人が多いことでしょう。実際、この両都市と映画との関わりについてはすでに多くの言及がなされてきました。けれども大阪だって映画の黎明期においては重要な場所だったのです。

大阪は日本で最初にスクリーン投影式の映画興行が行なわれたところだというのは一部の映画ファンには知られている事実ですが、著者はそれ以外にも映画にまつわる「事始め」を発掘しました。
活動弁士の祖は大阪人。日本最初のスター弁士は大阪人。本邦初の映画本を出したのは大阪の出版社。野外上映イベントの先がけとなったのは大阪……。活動写真から映画へと普及・発展していく過程で、大阪は様々な貢献を果たしてきたのです。

エジソンと交渉としてヴァイタスコープを入手した荒木和一は、1896年(明治29年)、難波の福岡鉄工所でヴァイタスコープの試写を成功させました。その翌年には、京都の稲畑勝太郎がフランスのリュミエール兄弟から購入したシネマトグラフを使って大阪の南地演舞場で一般興行をおこないました。地元の京都で興行しなかった理由は不明ですが、初日の上映風景の様子は大阪毎日新聞でも報じられ、連日大盛況が続いたといいます。ヴァイタスコープの一般興行もそれにやや遅れて新町演舞場で始まり、大阪ミナミを舞台に二つの〈動く写真〉が公開されたのです。

活動弁士の元祖というべきは、1896年に南地演舞場でキネトスコープが公開された時、登場した上田布袋軒。布袋軒とは義太夫の竹本津太夫の弟子として授かった名でした。生粋の浪花っ子なのに歯切れの良い江戸弁で語っていたらしい。

稲畑勝太郎のシネマトグラフが初公開されてから二ヶ月後、『自動寫眞術』という本が出版されました。自動寫眞とはシネマトグラフのことです。筆者は大東楼主人、発行元は大阪出版館。これが日本最初の映画本と武部は特定しています。

野外上映イベントの先がけとなったのは、大阪・浜寺海水浴場で催された『活動写真競技会』。1910年、大阪毎日新聞社が主催したものです。競技会となっていますが、別に作品の優劣をつけるものではありませんでした。無料で自由観覧、映画はお金を払って観るものという概念を打ち破ったことは画期的でした。このイベントを機に新聞社や自治体主催で大規模な野外上映会が各地で行なわれるようになったといいます。

1907年に活動写真の常設館「電気館」が大阪・千日前にできて以降、建設ラッシュが起き、東京・浅草と並ぶ大映画街として発展したという話も興味深い。また昭和金融恐慌のさなか、山川吉太郎が大阪で創業した帝国キネマが長瀬撮影所(現在の東大阪市)を建造し「東洋のハリウッド」と呼ばれた、という日本映画史の一コマも今では知らない人の方が多いでしょう。私も知りませんでした。

大阪の出版界では定番テーマとなっている地元自慢の一冊といえそうですが、埋もれた映画史を掘り起こしたという点では意義深い仕事だと思います。元新聞記者らしく周到な調査で日付や場所をきちんと詰めようとする姿勢にも好感をおぼえました。

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