現代社会はどこに向かうか_Fotor

「肯定する革命」へ〜『現代社会はどこに向かうか』

◆見田宗介著『現代社会はどこに向かうか ──高原の見晴らしを切り開くこと』
出版社:岩波書店
発売時期:2018年6月

これからの人間社会がどこに向かうかを考えるとき、まずは人類の足跡を振り返る、その歴史を踏まえて未来を構想するのが常道でしょう。人類史を顧みる場合には様々な時代区分のしかたがありますが、本書ではカール・ヤスパースを援用します。

ヤスパースによればまず考察の中心に「軸の時代」と名づけた時代がありました。ユーラシア大陸の東西に出現した貨幣経済と、これを基とする都市社会の勃興がその時代の大きな特徴です。それまでの共同体の外部の世界、〈無限〉に開かれた世界の中に初めて投げ出された人びとの恐怖と不安と開放感の時代。「軸の時代」とは、近代に至る力線の起動する時代であったともいえます。それは20世紀後半の情報化・消費化社会において、完成された最後のかたちを実現しました。

しかし近代という原理は、世界を覆ったグローバリゼーションによって、初めて環境と資源の両面において〈有限〉に直面することになりました。この第二の巨大な曲がり角に立つ現代社会は、どのような方向に向かうのでしょうか。本書ではこの問いに対して正面から応答しようと試みます。

 宇宙は無限かもしれないけれども、人間が生きることのできる空間も時間も有限である。「軸の時代」の大胆な思考の冒険者たちが、世界の「無限」という真実にたじろぐことなく立ち向かって次の局面の思想とシステムを構築していったことと同じに、今人間はもういちど世界の「有限」という真実にたじろぐことなく立ち向かい、新しい局面を生きる思想とシステムを構築してゆかねばならない。(p16)

「新しい局面を生きる思想」を構想するにあたって見田が最初に参照するのは、NHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに行っている「日本人の意識」調査の結果です。そこから見田が読み取った青年たちの精神の変化はざっくりいうと三つあります。

(1)男女の性別役割分担を基本とする近代家父長制家族の解体。
(2)生活満足度の増大と結社闘争性の鎮静。
(3)魔術的なるものの再生。

 一般論としては、(1)に関してはおおむね肯定的に論じられます。(2)については一般に若年層の保守化の文脈で論じられることの多い現象です。(3)は合理的思考からの離脱であり、その評価は人によってわかれるでしょう。

見田はこの傾向を概観した後、1981年に開始された「ヨーロッパ価値観調査」とその拡大展開である「世界価値観調査」の分析に入ります。そこでは日本の若年層と同様の傾向が見られることを確認し、さらに諸外国の若者の幸福観を読み取っていきます。

多くの先進高原期諸国において共通している価値は「寛容と他者の尊重」であり、「仕事にはげむ」「決断力・ねばり強さ」「利己的でないこと」などの価値も重んじられるようになりました。「仕事」に関する意識が、「かせぐための仕事」から「社会的な〈生きがい〉としての仕事」へと変化していることを見田が指摘しているのは要注目でしょう。

それを踏まえて、フランスで2010年に行われた「幸福観調査」の回答を引用しているのですが、これはある意味で興味深い内容です。全体的な幸福度について訊いた後、その理由について自由に記入してもらったもので、そこでは家族や恋人との団欒や旅行、勉学などで幸福を感じている様子が淡々と綴られています。「単純な至福」のありふれた実例が並んでいて逆に圧倒されてしまったとでも言えばいいでしょうか。

何はともあれ、そのような若年層の意識の変化をとおして、見田は壮大な人類史の分岐点における幸福感の転回を見出します。これ以上の経済成長のない社会とは、停滞した退屈な社会ではないか。その問いに対して見田は答えます。「欲望と感受性の抽象化=抽象的に無限化してゆく価値基準の転回」であると。これが本書の認識の核心を成します。

 経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界への旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちとの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。(p135)

それに付け加えて、20世紀の真剣な試行錯誤の成行の根底にあるものとして、見田は「否定主義」「全体主義」「手段主義」を挙げています。
「否定主義」とはとりあえず体制を打倒するという否定から出発する行動様式。「全体主義」は理想の実現のために特定の組織に権力を集中するイデオロギーです。「手段主義」とは未来にある目的のために現在生きている一回限りの生を手段化するという感覚です。

当然ながら、新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準は、その逆を志向する必要があります。すなわち「肯定的であること」「多様であること」「現在を楽しむ、ということ」。「肯定する革命」とはそのような公準に拠って立つ概念にほかなりません。

それにしても、こうした結論は私には今一つピンときませんでした。「転回の基軸となるのは、幸福感受性の奪還である」という認識をもとに成される「肯定する革命」なる概念は観念論に過ぎるのではないか。しかも上に引用した幸福をもたらす楽しみの列挙からは生産活動がすっぽり抜け落ちています。人びとがアートやスポーツや自然との交感を楽しむあいだ、誰が生産活動に従事しているのでしょうか?

欧米の先進国はともかく今の日本ではあらためて貧困が社会問題化しています。経済成長はひとまず「完了」し、高原状態に達したといえるかもしれませんが、その後、そこから後退したと見るのが多くの人の偽らざる実感ではないでしょうか。恵まれた人間関係も娯楽も学習もすべては一定レベルの物質的充足を必要とします。脱物質文化というスローガンは何よりも物質の充足を前提するものです。
ついでにいえば人間は未来に期待が持てないとき、現状に一定の満足感を示すことは社会学や心理学の知見の教えるところでもあります。

人類史の長い射程で考えるならば「幸福感受性の奪還」「肯定する革命」が大切なキーワードになりうることは否定しませんが、個々人の一度きりの人生をそのような悠長な人類史のなかで捉えることに「イエス」と答えられる人はどれほどいるでしょう。
こういう前向きな書物にはできるだけエールを贈りたいと思っていますが、それにしても、もっぱら若年層の意識変化に依拠して明るい未来像を描き出すのは机上の空論とまでは言わぬまでも少し無理があるような気がします。

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