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〈災後〉の社会を生きていく〜『日の沈む国から 政治・社会論集』

◆加藤典洋著『日の沈む国から 政治・社会論集』
出版社:岩波書店
発売時期:2016年8月

日本の戦後を考えるとき、国内的文脈と国際的文脈とのあいだにはズレがあります。さらに東日本大震災とそれに伴う原発事故の後、「災後」の問題が浮上してきました。加藤典洋の認識に従えば、災後の社会はそれ以前の社会とは異なった思考が求められているのです。それは端的にいえば「有限性」をめぐる問題です。戦後は終焉したが、災後の社会をいかに生きていくのか。本書はその問題を構想した一連の文章を中心に収めています。

戦後日本の平和主義的土壌は枯渇しました。それを踏まえて対米従属からいかに脱却するかが主要なテーマとなります。加藤は矢部宏治やロナルド・ドーアらの仕事を下敷きにして、九条の強化・改訂や国連中心主義による国連改革などを提起しています。一つの見識を示すものではありますが、問題意識もその解決の方向性もとくに目新しいことを述べているわけではありません。

災後の問題をめぐっては、ウルリッヒ・ベックのリスク近代論に依拠しつつ、もっぱら巨大化したリスクとどう向き合っていくかを問います。ベックの考察が画期的だったのは、再帰的近代においては外部環境=自然の限界とは関係なく人間社会が限界にぶつかることを警告した点にあります。

内部的な技術革新は、産業システムの大規模化、高次化を伴うが、その結果、必然的に高リスク化をもたらす。そのため、産業システムは、自然の限界がなくとも、成長を続ける限り、高リスク化を避けえず、いわば内在的にその限界にぶつかる。(p110)

つまり、資源環境の外部的な有限性が、リスクという内部的な世界の有限性の問題に変わるというわけです。その象徴的な実例が原発です。福島の原発事故後、保険会社は契約更新を打ち切りました。近代のリスク管理の最高の知恵とみられた保険制度をもってしても対処できない。それが再帰的近代の高次リスク社会のすがたなのです。

加藤はそれを踏まえてやや晦渋な考察に踏み込んでいくのですが、科学技術への不信を言いつのるかわりに、科学への信頼を追究することを説くくだりはわかりやすい。

科学的であるということは、ここで、原子力にたいしては、それへの盲信から自由に、批判的に対するということである。科学的であることは、原子力エネルギーに事故の危険、廃棄物処理などの問題があれば、それにしっかりと向き合い、この問題を解決しようとすることなのである。それがほんらい、解決のつかない問題だとわかれば、これに代わる代替エネルギーを考えようとする、しかし、ここに大きな障害あるとすれば、それを取り除こうとする。それがどんなに面倒なことでも隠さない。(p219〜220)

むろん上にも記したように本書の一連の考察はもっと思想的にニュアンスに富み、複雑な理路をたどっていることは付記しておきます。とりわけ日本が生み出した二つのキャラクター──鉄腕アトムとゴジラ──を一対にした批評的小論は、もう少し平易な言い方が可能ではないかという印象を拭い難いものの興味深い論考には違いありません。

またほかにもスパイスの利いた文章が収められていて、昨今の加藤の関心の在り処がよくわかる本になっています。

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