51-Zbirky3L_のコピー

時代精神を表現した文書として〜『文学部で読む日本国憲法』

◆長谷川櫂著『文学部で読む日本国憲法』
出版社:筑摩書房
発売時期:2016年8月

憲法を時代精神を表現した文書として捉え、それを文学テクストに向かうように読み解いていく──。本書は俳人の長谷川櫂が東海大学文学部文芸創作学科で行なった講義記録をもとに編集した本です。

古事記や万葉集、夏目漱石や司馬遼太郎を引っ張り出してくるあたりは、なるほど文学部的な読みかもしれませんし、時に憲法をキャラクター化したような表現も面白いといえばおもしろい。

日本国憲法前文の第一段は、憲法起草者たちによって日本国民を守る使命を与えられた日本国憲法が、自分の意思をもちはじめた巨大なコンピュータのようにひそかに目覚め、闘う姿勢をみせはじめる場面です。(p62)
……改憲に対して護憲という言葉がありますが、人間が憲法を護る以前に憲法自身、自分で自分を守る力を備えた巨大な生命体なのです。(p69)

押しつけ憲法論に対しては、日本文化論の見地から対抗します。すなわち日本文化とは「外国文化の受容、選択、変容を繰り返す運動体」との認識を提示し、その特質から肯定的な見解を展開していきます。象徴天皇制についても同様に日本の伝統からの説明を試みます。むろんこうした議論には異論も大いにありうるでしょう。

それ以上に明らかにツッコミが入りそうな点もあります。「どの選択肢が正しいかわからない。その判断を一人の君主に委ねるのが君主主義なら、国民の多数決で決めるのが民主主義です」というのは民主主義理解としては誤りでしょう。民主主義と多数決原理との間には理論的必然性はありませんし、むしろ両者は相性が悪いとする見解もあるほどです。また九条解釈に関連して「法の解釈は常識的であるべきです」というのも常識という概念の曖昧さを考えれば不毛な論争を呼ぶだけかもしれません。

また学生相手の講義ベースということもあってか強い説教調がまじっている点も少し引っかかりました。「選挙の棄権者は『政治への無関心』などというものではなく、主権を放棄して責任だけを負わされる『愚かな民衆』に逆戻りした人々です」などというくだりです。このような一方的な大衆批判が今日果たして有効な言説たりうるのかどうか。

憲法学者による憲法入門に食傷気味の読者には毛色の変わった憲法談義ということで面白味は感じられますが、積極的に推薦できる本かと言われれば、いささか微妙といわねばなりません。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?