はじめての沖縄

語ることの政治性を自覚しながら〜『はじめての沖縄』

◆岸政彦著『はじめての沖縄』
出版社:新曜社
発売時期:2018年5月

社会学者の岸政彦が沖縄について語ります。あるいは沖縄の語り方について語ります。必ずしも歯切れの良い記述がなされているわけではありません。一歩一歩自分の足元を確認しながらゆっくりと進んで行くかのような筆致。結論的なことから先に記せば、牛歩を思わせるような遅い歩みにこそむしろ著者の誠実さがあらわれている気がします。

社会学者として沖縄で体験したことや自分が遭遇した人びとの挿話を書き記す。あるいは歴史的な大きな物語にも言及する。どのような話をするにせよ、そこから系統立てて一つの提題に収束させていくわけではないことは、話題になった『断片的なものの社会学』と同じスタイルかもしれません。しかしそこから沖縄の人びとの生き生きとした日常的なすがた立ち上がってくることも確かです。それは加藤秀俊のいう「世間話の延長」としての社会学のありかたを想起させもします。

むろん個々の挿話から岸なりの仮説的なものを提示することも忘れていません。たとえば、あるところでは沖縄の「自治の感覚」について述べています。紙ナプキンでバレリーナをつくるタクシーの運転手。突然路肩に車を止めて「もう降りましょうね」と言い、そのまま帰宅する運転手。彼らの自由なタクシーの営業ぶり。あるいは図書館で寒さを訴えると私物のストーブを足元に置いてくれた職員。彼らの仕事に沖縄的な「自治の感覚」を見出すのです。

また別のところでは、沖縄の自立的な経済成長について述べています。

……戦後の沖縄の経済成長と社会変化は、おそらく米軍の存在がなくても、自分たちの人口増加と集中によって成し遂げられただろう。このことをさらに言い換えれば、次のようになる。沖縄は、米軍に「感謝する」必要はない。この成長と変化は、沖縄の人びとが、自分たち自身で成し遂げたことなのだ。(p110)

そうした沖縄の特質や歴史を語りつつも、随時、みずからの語りの方法について自己言及的に省察を加えていくところが本書の大きな特徴でもあります。沖縄を語るとき、学術的にいえば本質主義にも構成主義にも偏らない態度が可能なのかが自問自答されるのです。

 私は、沖縄的なものは、「ほんとうにある」と思っている。あるいは、もっと正確にいえば、ほんとうにあるのだということを私自身が背負わないと、沖縄という場所に立ちむかうことができないような気がしている。
 でもそれは、文化的DNAとか気候風土とか、そういうことではなくて、おそらくはもっと世俗的なものと関係あると思っている。また、そのように世俗的に語らなければならない、と思っている。特に、ナイチャーとしての私は。(p187)

さらに岸は「沖縄を語ることを考える」というメタレベルに立つことの「政治性」についても指摘します。

 どのように語ればよいか、ということについて、はっきりとした正しい答えは存在しない。ただここでは、この、どのように語るにしても私たちは何らかの意味で政治的になってしまう──南の島への素朴な憧れも含めて──ということについて、もう少し考えてみたい。
 どう語っても政治的になってしまう、ということが、言いかえればつまり、私たちの沖縄についての語りが、その語り方にかかわらず常に政治的な場にひきつけられ、そこから自由になりえない、ということが、それがそのまま日本と沖縄との社会的な関係の、ひとつの表れになっているのである。
(p240〜241)

ここでは沖縄を語ることの困難は、時に社会学を実践することの困難とも重ね合わされているようにも思います。そしてそのうえで「言葉というものが、あらゆる政治性から自由でありえないとしても、私たちにできることは、まだあるはずだ」と岸は考えるのです。その時、「日本がこれまで沖縄にしてきたことの責任を解除するような方向で語らないこと」と銘記している点は何よりも重要な前提でしょう。

なお本書には岸自身が撮影した沖縄の写真が多数掲載されていて、興趣を添えています。沖縄について、社会学について、関心のある人ならば読んで損はありません。根強い人気の「よりみちパン!セ」シリーズにふさわしい良書だと思います。

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