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大事なのはファクトなのだ!〜『フェイクニュースの見分け方』

◆烏賀陽弘道著『フェイクニュースの見分け方』
出版社:新潮社
発売時期:2017年6月

誰もが発信者になれるインターネットの普及は、情報社会の活性化に貢献したかもしれませんが、同時に虚偽の情報=フェイクニュースがノーチェックで撒き散らされる状況をもたらしました。SNSでは出典が明記されていないデータや写真を平気で拡散するユーザーはあとを絶ちませんし、論者が具体的論拠を示さずに私見を述べあっている風景はメディアの新旧を問わず日常茶飯事です。現代では、事実=ファクトを探りあてるのに今まで以上にメディアリテラシーを求められるようになりました。本書ではそのための具体的な方法を提示しています。

もっともここで示されているニュースの真偽の見分け方は、私からすればごく常識的なものといえます。

「膨大な公開情報を蓄積し分析することがインテリジェンスの第一歩である」
「マスメディアで流れてきた情報を疑う第一歩は、他の公開情報を調べてクロスチェックすることである」
「事実の提示のないオピニオンは無視してよい」
「主語は明示されていない文章は疑う」
「『何を書いているか』と同様に『何を書いていないか』に着目すべき」
「実在する人間を『完全な善人』または『完全な悪人』であるかのように見せる表現は、現実から離れている」
「フェアであることは、真実に近づくための方法である」
「引用が正確かどうかで、その発信者が伝える『事実』の正確さが簡単にわかる」
「欧米では違法行為のステマが日本では今も野放し」
「世の中には一定数『妄想』を広めようという人がいる」
「大企業や政府などの宣伝に沿った話は疑う」

以上は本書で示されているヒントの一部ですが、とりたてて目新しいことはいっていません。だから価値はないというのではなく、本当にこれだけの心構えをもってメディアに接するなら、かなりの成果が得られるだろうと思います。

本書では以上のようなノウハウを教示するのに実際の記事を例示しているので、話はきわめて具体的に進行します。著者は朝日新聞に勤務した後、2003年に退社し現在はフリージャーナリストとして活躍している人物ですが、フェイクニュースを切りさばいていく手際は鮮やかで、池上某の紙面批評よりもよほど切れ味は良いと思います。

たとえば「ビッグ・ピクチャーをあてはめよ」とする一章では、高市総務大臣の放送法に関する国会発言報道を俎上にのせています。政治的公平を定めた放送法に抵触する放送が繰り返された場合の電波停止の可能性に触れた彼女の発言はしばしば「政府による言論弾圧」の文脈で論じられました。烏賀陽は民主党政権時代の総務相の発言と比較して、基本的には同じ趣旨のことを述べていると指摘します。そこで問題なのは大臣の答弁ではなく、現行の放送法の規定だと結論づけるのです。

そもそも「独立行政委員会ではなく総務大臣が電波免許を握っている」というシステムと、それを根拠づけている法律が報道の自由に対して抑圧的であり、非民主主義的であり、間違っているのだ。
 ……(中略)……このシステムと法律があるかぎり、自民党だろうと民主党だろうと、政権を持った与党がは電波を停止する法的権限を得てしまう。それが本当に重要な事実である。(p106〜107)

原発事故に関する一連の報道に関しても、科学的には不明なことがらが多いのに、それを認めようとしない報道や論評に疑義を呈します。そのうえで「『結論はわからない』という結論を日本のマスコミは許さない」ことを批判しています。

神戸連続児童殺傷事件の犯人である「元少年A」の手記の出版に関する論考も興味深い。その刊行の是非をめぐっては激しい議論が起きました。烏賀陽は手記を読んだうえで「元少年A」にしか書けないことがらがある以上、出版することに「意味があった」といいます。

「当事者が社会的に発言する行為」そのものを断ってはならないと私は考えている。世に出し、判断は読む者がすればよい。社会がそれを判断するチャンスを奪うことのほうが、結局は社会総体では損失が大きいと考えている。(p174)

もちろん賛同できない点、疑問に感じた点もいくつかあります。ここでは一つだけ挙げておきます。
上記の「元少年A」の出版に言及したくだりで、「選挙で選ばれたわけでもない『行政』『裁判所』に言論の是非を判断する権利はない」とまで述べているのはどうでしょう。いささか揚げ足を取るような批判かもしれませんが、行政はともかく裁判所に言論の是非を判断する権利はない、というのはいくらなんでも乱暴ではないでしょうか。言論の自由はしばしば他の自由や権利と衝突します。すべてを自由な言論市場の淘汰に委ねて社会がうまく回るくらいなら何の苦労もありません。また主権者に選ばれることだけが公権力行使の正統性を担保するわけでもありません。

いずれにせよ、そうした論争含みの点も含めて、本書の記述は単なるスキルの伝授にとどまらず、一種のメディア論としても興味深く読めるものになっています。その意味でも一読に値する本ではあることはたしかです。

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