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人を救い、同時に苦しめるもの〜『人はなぜ物語を求めるのか』

◆千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』
出版社:筑摩書房
発売時期:2017年3月

人はなぜ物語を求めるのか。そのような素朴な問いから出発して、あれこれとテクストや具体的な事例を引きながら思索の道を進み行き、本を閉じる頃にはどこか遠く高い見晴らしの良いところまで連れてこられたような気がする。いきなり結論めいたことを言うのも気が引けますが、そんな読後感をもたらしてくれる好著です。

物語とは人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマット。それは人間や人間社会の成り立ちを基礎づける認知形式ではないだろうか。千野帽子はそのように問いかけ、様々な学問領域の垣根を超えて考察を進めていきます。

まず「私」と物語との関係はどのように考えられるでしょうか。
認知神経科学においては、自己とは全人格のなかの一部にすぎず、そのありかたは状況に応じて刻々と変化しつづけていると考えます。「私」とは、瞬間ごとに意味の違う「私」をバラバラ漫画のようにつなげたもので、何か一貫した実体であるかのように物語ることによって生じる、というわけです。

「自己」概念は物語的に構成されている──。そのような認識は哲学においても主張されてきました。ポール・リクールはそのものズバリ〈物語アイデンティティ〉なる概念を打ち出しています。

物語はもちろんそれだけでなく人間が他者や社会のあり方を理解しようとするときにも重宝されます。

一般的に、ストーリーは「物語」の形で表現・伝達されますが、ストーリーの筋において「できごと」が起こると、世界がある状態から別の状態へと遷移します。また、できごとは「報告する価値があるもの」として認識され、報告価値は内容だけでなく受信者の状況によっても決まります。

人はそのようにして他者や社会との関わりで生じるできごとを理解しようとし、他者との関係を維持しようとします。そのことが私たちに一定の安心感をもたらすことは間違いありません。そのことによって他者への共感も生まれるし、社会への参画もスムーズにいくことでしょう。

しかし陥穽もあります。たとえばできごとの前後関係をしばしば因果関係だと勘違いすることがよくあります。ヒュームが指摘したように、人間は時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性をもっています。「前後即因果の誤謬」と呼ばれるものです。ロラン・バルトは、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」だとまで述べました。

人は世界を理解しようとするときに、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるをえない。こういった人間学的傾向を人はふだんほとんど自覚しません。(p138)

世の中のできごと理解するということは、知性の問題という以上に感情的なことなのです。さらにいえば「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ないということにもなります。

ところで、個人史としての物語を考える時、子ども時代に作り上げた一般論の集合体(世界観)はしばしば偏っていて、そこから生まれるストーリーは成長後の人を苦しめることがあります。

人間は世界を物語の形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、無自覚なままおこなっています。人生に期待するということの大部分はこの弾道予測への期待です。逆にいうと、失望とはこの無自覚な妄想的シミュレーションから生み出される感情にすぎません。

僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。物語論を研究していて、教えられたことのひとつは、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在する、ということです。(p107)

世界でひとつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である、と千野はいいます。人は物語から完全に逃れることはできないかもしれませんが、それを相対視することは可能だということでもあります。

さらにまた、人は不本意なできごとの原因を探し、その存在に報いを与えたがる心性があります。そのような義務や道徳を支える「べき論」もまた意外と感情的なものといえます。
「べき論」によって人は、世界や他者を操作できると思いこんでしまう。世界は公正であるべきだという考え(公正世界の誤謬)に無自覚だと、被害者を責めたり自責したりすることにもなるでしょう。

僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていきたいものです。(p212)

つまりまとめあげていえば、物語は、人を救うこともできますが、逆に人を苦しめ原因ともなるものです。人間にとってはまさに両義的なもの。物語がはらむ、そのような権能や副作用について、哲学や宗教、認知科学や人類学、生物学などあらゆる分野から知見を参照しながら考察する本書は、物語論としての奥深さを示してくれるものです。

時に心理学などの実験データを参照したアプローチのしかたは実験社会科学を標榜する亀田達也の『モラルの起源』にも重なり合いますし、物語の発展的な解体へと誘う哲学的な姿勢は千葉雅也『勉強の哲学』とも共振するかもしれません。読者の関心の持ち方によっていろいろな読み方が可能な、知的刺激にみちた本といえるでしょう。

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